知らず知らずに広めた証





知らず知らずに広めた証






「なっ、なっ、何これーー!?」
「すごいだろう」

思わずあげてしまった大声。
返事など求めてはいない私の言葉であったのだが、どこぞの夢魔を彷彿させるような誇らしげな声が返ってくる。ちらりの横を見てみるとすでにもう見慣れてしまった夏服でニカリと笑う三つ編みをした男の人、ゴーランドが立っていた。
いつの間に横に立っていたんだとツッコミたいところだが、今は開いた口を閉じることもままならない。きっと今の私はひどく間の抜けた顔をしていることだろう。



遊園地に行くと目の前に海が広がっていた。



……比喩でも誇張でもない。
今立っている足元は砂浜だし、その先には真っ青な水がひたすらに続いている。少し離れたここからでも波が押し寄せる音が確かに耳に入ってきて、それは目の錯覚だけでないことを告げる証拠であった。
それになにより、水着姿の人達で溢れかえっていて、泳いでいる人はもちろん砂の城を作っている子供たちや、ビーチボールで遊んでいる人までいる。
こんなのどこからどう見ても、

「海………、よね。何でいきなり海ができたの?というかこの世界に海なんかあるの?」

訳が分からない。なぜ、突然、いきなり海がでてきたのだ。
ぶつぶつと呟く私の声は聞こえていないのか、腕を組んでうなづきながらゴーランドは私に話かけてきた。

「なかなかの出来だろう。夏と言えば、海。そうだろう」
「そうね…夏と言えば海ね……」

元気いっぱいなゴーランドとは裏腹に、私の声はひどく虚ろだ。あまりのできごとに、目に見えて取り乱してはいないが内心引っ越しが起こったときぐらいにパニックになっている。
たしかに遊園地に入ったときに聞こえてくる声が、普段のように絶叫系の乗り物に乗った人の金切り声がないことに違和感は感じていた。



この場所に住んでいる人の趣向の問題か、この遊園地の乗り物のほとんどは絶叫系である。むしろ本当ならば絶叫系でない乗り物であったとしても、改良やら改造やらで絶叫系並の恐怖を味わえる品になってしまっている。
ここの遊園地にかかれば、観覧車ですら並外れた恐怖を味わうことができるというのだから、もう呆れかえるしかない。

だからいつもならば遊園利の門をくぐる前から、甲高い叫び声とガラガラガラというアトラクションの動く音が聞こえてくる。
しかし今回はアトラクションによる叫び声というより、外で元気に遊ぶ人たちの盛り上がる声が聞こえてきていた。それはそう、最初に季節をめぐったときに門近くでプールができていたときに聞こえてきたものと似た声。

もちろん、夏になってからプールはいつの時間帯も大賑わいみたいだからその声が聞こえてくることは自体はなんらおかしくない。しかし、その声しか聞こえてこなかったことにまず疑問を抱くべきだったのだ。
森クジラのときに海という単語をこの世界の人が出していたから、海自体を知っていることには驚きはない。しかし、こんなものが突然現れたということは問題だ。
まさかこの世界は海まで移ってくるのか。



(……ってあれ?)
「ちょっと待ってゴーランド、出来って何?」
「ははは、つい1時間帯前に完成したんだ。いやぁ結構大変だったんだぜ。なにせこれだけの面積を空けるためにかなりのアトラクションを取っ払ったからな。だが、それに似合うだけの賑わいだろう」
「えっあなた、これ造ったって言うのっっ!?!?」


アリエナイ。
からから笑いながら言うにはあまりにも規模が大きすぎる話だ。これならまだ突然海がどこからか湧いてでてきたって聞いたほうがマシだったかもしれない。

海を作る、だなんて私の常識からしてまずありえないし、そもそもできるはずがない。そんな発想が出てくる時点でもう意味が分からない。ワンダーワールドだからといってそんなことが許されてしまっていいのだろうか。
プールならわかる、プールなら。それに夏の日差しにはプールとり海の方がテンションがあがる、という考えが浮かぶこともまだわかる。
だからといって、実際に作るって……。正気の沙汰とは思えない。

「これ造るのにどれだけかかったのよ。いくらなんでも数時間帯じゃ無理でしょう」

それに人工でこんなものを作ろうとしたらどれだけの費用が掛かることやら。ぐらりと立ちくらみがしたのは、この暑い日差しのせいだけではないだろう。
よく言えば一般的な思考、悪く言えば貧乏性の私は、これを作るためにかかったであろう莫大な費用にも目がいってしまう。野暮なことだから聞いたりしないが、それだけのお金があれば新しいアトラクションが軽く数十個作れただろうに、わざわざ今まであったものまでなくして新たなものを作るだなんて。しかもある意味夏の終わりともいえるこの時期にだなんて、私の理解をはるかに超えてしまっている。

「完成するまで気付かなかったなんて、信じられない……」

こんなにトンデモナク大きいものを造っていたことを私は全然知らなかった。通常ならばアトラクションがなくなっていくときや海ができていく過程を見ることになっていただろう。いくら時間を操れたり、好きなもの(主に武器)を出せる世界であろうと、こんなものが数時間帯で完成するわけがない。

その理由は、残念ながら自分でもわかってはいるのだが………




「そりゃぁ、あんたがここに来るのが、かな〜〜り久しぶりだからじゃねぇか」
「うっ………」

『かなり』という言葉にわざとらしく力を込められる。悪意はないだろうが、私の罪悪感が刺激されるには十分すぎるほど。
そうなのだ。私は全くと言っていいほどここ数十時間帯、もしかしたら百時間帯以上かもしれないほど、遊園地に来ていない。それはこの前いつ遊園地を訪れたのかはっきり思い出せないほどである。

言っておくが別に遊園地が嫌いになったからとかそういったことではもちろんない。そこを勘違いされてしまうことがあればとても悲しい。
だからといって完全な真実を自分の口から事細かに言えないのだが、言い訳がましいと分かっていながらも言葉をつづける。

「ごめんなさい、わざとじゃないのよ?ただそのちょっと色々あって……」
「いいっていいって。あんたも大変だったんだろ。言うの遅れちまったが、結婚おめでとう」
「………ありがと」

(言わなくとも私がこなかった理由はある程度想像がついているわよね……、恥ずかしい)

そう、結婚。ゴーランドが言った通り、結婚してしまったのだ。
今の私はアリス=リデルではなくアリス=デュプレ。私の左の薬指には鮮やかな輝きをはなった、シンプルだがセンス良く宝石の散りばめられた指輪がはめられている。ちょっと、というかずいぶん前に秋の領土内のあの教会で結婚式を挙げた。
だいぶ前のことなのに私が外に出たのはこれが結婚式以来初めてである。

(ほんっとあの男は×××なんだから)

つまり………というか、おそらく想像通り私はブラッドのせいで外に出れなかったのだ。





『今の私達は蜜月だろう』

とかなんとか分けの分からないことを言って夜は気絶寸前(というかたまに気絶する)まで付き合わされたり、そのせいでベットから動けないことがざらにあったり。仕事ももちろん結婚前と同じく継続して行っているのだが、仕事内容は以前のように屋敷の掃除といったのはなくなりブラットの部屋の掃除ばかりさせられている。
なんだかんだと、屋敷の外どころか部屋から出ることすらほとんどできなかった。

(こんなの結婚と名の付いた軟禁じゃない)

もちろん私と結婚したからといってブラッドのマフィアのボスという肩書が変わるわけでもない、彼だってずっと私にかまっていられるわけもなく、仕事のために外出しなければいけないときも何度かあった。私だってもちろんそのタイミングで外に逃げ出そうと何度も思った……、のだがそういう時間帯は必ず仕事をいれられたり疲れて眠ってしまっていたり(原因はもちろんあの男)でくやしいことに脱出作戦はすべて失敗してしまった。
仕事はたとえ誰かに無意味と言われても必ず行うことが私の信条だから、たとえ理不尽だと憤っていてもその仕事をさぼってまでの外出は私にはできない。ことごとく私の性格を知り尽くした上での妨害だったといえる。

しかし、今回は話し合いやら殲滅やらで5時間帯ほどいないらしく、ようやくのことで脱出できた。もちろん直前までしつこく、それはもうしつっっこく相手をさせられていた。そのせいでかなりだるい……特に腰が。
そんな中眠らずに動くことができたのは、きっと気合いと決意のおかげだろう。寝たふりをしてブラッドが部屋から出ていくまでの間が本当につらかった。体力を消耗した後の眠気は恐ろしく甘美な誘惑で、それに立ち向かうために心の中でブラッドへの呪詛を言い続けていた。
それぐらいもう、あんな爛れきった生活など当分ごめんだ。
今だって本当はふかふかのベッドがあればすぐに眠れそうなほど眠いのだが、目に痛いほどの夏の日差しのおかげでなんとか意識を保てている。

遊園地を選んで来たのにも理由がある。疲れてる身体に鞭を打つような季節ではあるが、それぐらいしないとだらけきった自分を立ちなおすことはできないと思ったのだ。
それになんといっても夏の昼。いくらあの男でも自分から私を迎えに来ることはないだろう。
一緒に夏に行ったこともあるけど、あの時は夜だった。途中で夕方や夜に時間帯が変わることも考えて砂時計も持って来たし、夏の昼間など暑いのがだめなブラッドが来るわけない。

当然こんなことをしてしまった以上、帰ったら大変な目に合うのは明確だろう、がそんなこと私はおそれない。そもそも大人しく屋敷の中にいたところでずっと相手をさせられるのだ、どっちにしろ身体が持たない。結果が変わらないのであれば、その前に自分がしたいことを存分にやっても罰は当たらないだろう。
私としてはすでにお釣りがでてもおかしくないと思うほど相手をしてきたわけなのだから。




まぁそんな訳で、せっかく久しぶりに外に出たのだから思う存分遊ぶ気でいる。これまでのことは思い出すだけ自分がかわいそうになっていくので、これからもう当分は思い出さないつもりだ。
海があるのだというのなら、できるまでの過程など舞台裏について考えず純粋に思い切り遊びたい。しかし……

「私水着持ってきてないわ。これじゃ遊べないわね」

前に何回かプールで遊んだから自分の水着を持っていないこともないのだが、今私の水着は屋敷の部屋の中にある。取りに戻ったりなんかしたら、また軟禁状態に逆戻りするに違いない。
このことを知っていたら持って来たのに残念だ。

「あぁ、それなら大丈夫だ。今回うちは水着レンタルもやってるから、泳げるぞ」
「ほんとに!?だったら遊べるわね!そのレンタルの場所まで案内してもらえるかしら?」
「いいぜ。それじゃ、こっちだ」

快くゴーランドは引き受けてくれた。わりと近くに構えていたレンタル水着屋まで案内してくれる。
俺がいない方が選びやすいだろうと、案内してあとすぐに立ち去ったゴーランドのやさしさがとても嬉しい。このやさしさの一割でもあの男にあれば………と思わずにはいられない。



はやく遊びたくて、とりあえず身近にあった自分の持ってるものと同じビキニタイプの水着を借り、着替え場に向かう。
中に入り意気揚々と着替えを行おうとした、のだが………

「〜〜〜〜っ!」

エプロンをとりドレスのボタンを外し脱ごうとしたところで気付いてしまった。


…………服で隠れたところに赤い痕が多数付いていることを


独占欲が強いあの男は、私がいつも痕は残さないでと言っているのに相変わらず痕付けてくる。さすが見えるところにわざとらしく付けることはなくなったのだが、服で隠れる場所には全く遠慮がない。
この水着を着たら何をどうやったとしても完全に見えてしまうだろう。

(これはヤバイ……)

淑女としてこんな行動はどうなんだと思うが、くつろげた胸元から他人に見えないようにゴソゴソと自分の身体を確認する。腕や胸元は幸いなことに付いてないのだが腹にかなり付けられている。それだけでもかなり………、なのに脚の付け根という際どい部分にもいくつか付いていることが分かった。

「こんなの人前に出れないじゃない。どうしてくれるのよ×××」

ここにはいない男に思わず恨み言を言ってしまうが、そんなことをしていても状況が変わるはずもない。せっかく海があるというのに、それを目の前で諦めるのはくやしすぎる。
諦めるなんてとてもできない。

結局、もう一度レンタル水着屋に戻って水着を選び直すことにした。この形にこだわらなければ、痕をうまく隠せるかもしれない。




最終的に上下セパレート型で上の水着は腰まで隠れるもの。それと下の水着の上に履くズボンがついた3点セットのものを借りなおしてきた。
更衣所に戻り、ワンピースで身体を外にさらさないように頑張って着替えていく。苦労しながらも着替えを終えて、ワンピースを頭から脱ぐ。
一通り確認で、後ろを振り返って脚を見てみるが、痕など何も見えない。自分の胸元や脚を見下ろしてみても何も邪推されるようなものはなかった。セパレート上の水着が上にずれて腹が見えたりしなければ、きっと外からは見えないだろう。


最後に薬指に輝く指輪に目が行く。
どうするか一瞬迷ったのだが、とりあえずつけたままにしておくことにする。途中で外れて流されたり、海の水で錆びたりすることが絶対ないとは言えないが、結婚以来一度も外していないこの指輪を取ってしまうことに抵抗を覚えたのだ。
軽く指輪を撫でてから、髪をポニーテールにして更衣所から外にでた。




「うっ………」

きつい日射しを受け一瞬で目の前が真っ白になる。でもそれもほんの束の間、

「アリス!」
「っ!」

突然自分の名前を呼ばれた。右手で日差しから顔を守るようにして、目を細めて声がした方を見る。
すると……

「ボリス!久しぶりね。あなたも海に遊びに来たの?」
「違うよ。いや、違わないのかな。おっさんからあんたが来たって聞いたから一緒に遊ぼうと思って来たんだ。色々準備もしてきたんだから。それよりそこは熱いだろ、はやくこっちにおいでよ」

砂浜の上で、相変わらずショッキングピンクなボリスが自分に向かって手招きしていた。久しぶりに見る彼はいつも通りの笑みを浮かべている。
確かにこの暑い日差しを受け続けている地面は焼けるように熱い。ボリスはパラソルの下にいて言葉通り、足元には浮き輪やビーチボールやらが置かれている。私はとにかく日陰に駆け込んだ。

陰に入るだけで一気に気温が下がった気がする。更衣所から出たすぐの地面もそうだが、ここに入るまでの砂浜も驚くほど熱かった。
熱さでヒリヒリする足をブラブラさせているとさっとすり寄ってきたボリスが話しかけてくる。

「まずはこれだね、結婚おめでとう、アリス」
「あ、ありがとう……」

本日二度目のお祝いの言葉だか他に返す言葉が思いつかず、どもりながらとりあえずお礼を言っておく。ゴーランドにも言われたばかりではあるがやはり慣れそうにない。

「全然遊びに来てくれなくて寂しかったんだぜ。どう、新婚生活は?」


(新婚生活なんて………基本ベッドの上の記憶しかない)

ぽんと思い出しかけたあれやこれやを記憶の奥に押しとどめる。
なんて返そうかとわたついていると、ボリスがニマニマした顔で私を見ていることに気が付いた。

(絶対分かっていて聞いたわね)

私はギロッと睨みつけた。

「うわ、怖い怖い、冗談だって。まぁあんたと水着で遊ぶ方がもっと怖いことになる気がしなくもないけど……。ごめんって」
「ふんっ」
「ああもう、久々に会うんだから機嫌直してってば。あ、そういやあんた、今回は前と違う水着なんだね」
「……ええ、前の水着は屋敷に置いてきちゃってて」
「あぁそうなんだ。そういやおっさんがレンタル場所作ったとか言って気がするけど、もしかしてそこで?」
「そうよ、ご名答」
「そっか、前のと水着の形違うのにしたんだね」

(ほんと嫌なところばかりついてくる猫ね)

今度のは別にボリスに何か意図があったわけではなく、ただそう思ったことを口にだしただけなのかもしれないが、思わずそんなことを思ってしまう。
きっとふくれた私への話のきっかけに一番しやすかったのだろう。こんな流れになるなら冷たい態度を取らなければよかったかもと少し後悔する。

「ど、どうせなら違った形のものもいいかなって思って。それとも似合わないかしら」

その場でゆっくり一回転してみる。
正面に戻ってみると、なんだかボリスがすごく決まりの悪そうな顔をしていた。

「なに、ほんとに似合っていないの?」
「いやいや、そんなことはないよ。すっごく似合ってはいるんだけど……」

(全然そんな感じがしない。他の水着にしたほうがよかったのかしら)
形にだけこだわって、デザインはあまり見ずに選んだ水着だが、そこまで悪いものだとも思っていなかったのだけど……

「帽子屋さん、これはちょっと………」

一瞬自分の世界に入り込んでしまっていた私には、小さく呟いたボリスの声が残念ながら耳に届かなかった。

「いいや、とりあえず海に入ろうっか。ここにいても仕方がないし」
「えっ、あれなら私着替えてくるけど…」
「ああ、違う違う、別にアリスがおかしいとかそういうのじゃないから。ただ、……そうそう向こうでおっさんがしょうもないことをしようとしてたのが見えただけ」
「………なんか誤魔化してない?」
「してないしてない。ほら、行こうぜ!」
「わわっ!!」

ボリス下に置いていた浮き輪を左手で掴み、空いた右手で私の腕を掴んで引っ張る。私はボリスに引きずられるようにパラソルの下から暑い日差しの下へ飛び出した。




「これが造ったものだなんてほんと信じられない」

ボリスに引かれるまま膝ほどまで海の中に入ってみたが、やはり本物の海のようだ。波がひいては迫ってきて、肌に押し寄せてくる。
試しに指先を少しつけてちょっと舐めてみたら、塩辛い味が口に広がった。

「うっ、しょっぱい。ちゃんと塩水だわ。こんなに再現できるものなのね。びっくりした」
「まぁ、おっさんもかなり力注いでたみたいだしな。しかも、魚も大量に入れられているんだぜ」
「そうなの!?」

ただの塩水なら魚なんて生きていられるはずないが、森で魚やらクジラやらが泳げる世界だ、きっとそこには突っ込んではいけないのだろう。
あくまでも本物の海に近づけようとするゴーランドの頑張りに瞠目する。

「あ、そうだ!せっかくだし、ただ水で遊ぶってのじゃプールとあんま変わんないし、どうせならどっちが魚を多く捕まえられるか勝負しようよ。ゴーグルとか網とか魚捕まえるのに必要そうなものも色々と準備してきているんだ」

興奮しているせいか、ぴくぴくと動くピンクの耳に笑みがこぼれる。目は口ほどにものを言うとはよくいうが、この世界には耳が口よりものをいう人でいっぱいだ。
猫だけあって魚に対しては全力を出してくるだろう。魚とりなどやったことのない私が勝てるとは思わないけど、たまにはこういうこともいいかもしれない。

「いいわよ、やりましょう。それじゃあルールは?」
「んー、1時間帯の間にどれだけ魚を捕まえれるか。バケツとかケースも持ってきたから、網とか手で捕まえた魚はそれぞれのバケツやケースに入れること。これでいい?」
「ええ、いいわ。じゃあ早速始めましょうか」

ボリスともう一度パラソルの下にもどり、網とバケツとゴーグルを受け取る。私はひとまず網とバケツを砂浜に置いて、ゴーグルをポニーテールにくぐらせて首からかけた。
ボリスに関してはその短い時間で、ボリスはもうすでに岸からかなり離れたところまで泳いでしまっている。

「プールのときも思ったけど猫なのに」

猫って濡れるのは基本嫌いなはずなのに、それはボリスには当てはまらないようだ。
自分はどうしようか考える。

(こんな浅瀬にはいないだろうし深いところまでいかないといけないわよね。普通のレベルには泳げるけど、さすがに浮き輪なしで岸から離れるのは危ない。でも、だからといって浮き輪持ってたら魚取るのには邪魔になりそうだしなぁ……)

キョロキョロとあたりを見回してみると、少し離れたところでテトラポットや岩が並んでいるのを見つけた。

(あそこら辺なら小さな魚がたくさんいそう)

別にわざわざ深いところにまで行かなくても、場所によったら浅瀬でも魚がいるはず。そう思った私はバケツと網を持って移動を始めた。



その岩場の近くには不思議と人がいなかった。これだけ静かならば小さい魚が岩の隙間を住処にしているかもしれない。
近くの砂浜の上に邪魔になりそうな浮き輪やバケツを置き、網だけ持って岩にのぼり岩づたいに進む。 日の光を浴びて岩がかなり熱くなっているのを手や足の裏を濡らすことでカバーしながら進んでいった。

(けっこう楽しいかも)

ガタガタの岩に乗り移っていくのは意外と楽しい。水着だから露出が多く、滑ったり踏み外したりしたらどこか怪我をするわけではあるのだけれど、それぐらいのスリルならなんてことはない。銃撃とかそんな普段会うスリルに比べたら可愛いものだ。

他にも岩陰に小さなカニが隠れていたり、岩壁には貝もくっついていてなんだかワクワクする。一つつまんで、岩から外してみると中に生き物が住んでいた。

(ちょっと可愛い)

つんっとつつくと、中に潜っていってしまう。
その状態で岩に戻してあげると、いつの間にかまた中にいた何かが出て来て岩に張り付いている。
場所によっては家族のように大きさの違う貝が何個か並んで張り付いているのもあって、なんだか可愛い。


「って、目的は魚魚」

こんなところで一人で貝と戯れているなんて、すごくかわいそうな子みたいだ。
…………大きく間違っていないのだけれど。

下を覗いてみると、時々小さな魚が何匹か岩の合間を横切るのが見えた。
片手に持っていた網を両手に持ち直し、魚が通った場所に入れてみる。

「あ、これはダメだわ」

岩と岩の間が狭いのとグネグネしているせいで、網がうまく入らない。ガシガシと岩にぶつかってしまう。無理矢理に海の中に網を入れることはできたが、そのときに水が荒れてしまったせいか、魚の気配が消えてしまった。
網を使うならばもう少し開けた場所でないと無理そうだ。

「あ!いいところ発見」

少し進んだところは岩と岩の間隔がかなり離れている。それに一つ一つの岩が大きくて足場も安定しそうだ。
そこでなら思う存分網を使えるだろう。
片手で再び網を持ってその場所まで移動した。


「これならここまでバケツも持ってきたらよかったかもしれないわね」

ここまで来てまだ魚が本当に捕れるかも分からないから、今取り戻りはしないけどもし捕れたときは少し面倒かもしれない。
ちょっと失敗したなと思ったけれど、それはここで魚がちゃんと捕れた時の話だ。とにかくまずここで魚を捕れるか試してみないことにはどうしようもない。覗き込んで見ると、なんだか白いものが浮かんでいて見えづらいが、ちらほら魚がいるように見える。

静かに波音が立たないように網を水中に入れる。

「んんーーー、せやっ」

じゃぱん、と音を立たせてしまったが、網を一気に引き上げる。高く持ち上げてみるときらりと光りが反射した。中には魚が二匹入っている。

「やったわ。とりあえず二匹も掴まえれた。ここならもう少し魚を捕まえれるかもしれないわね。……ってあれ、これ何かしら」

さっきから水面に浮かんでいる白いものまで一緒にすくってしまったようだった。
何かのゴミかと思って深く考えずに私は網の中に手を伸ばす。……愚かにも手を伸ばして触れてしまった。

「やっいたっ!!」

その白いものに触った右手にバチンと電気がショートしたかのような激痛が走る。
慌てて網を投げ捨て左手で右手首を掴み座り込むが、何かに触れた右人差し指の痛みは増すばかり。目を閉じてぎゅーと耐えようとするが、痛みは引くどころか大きくなり、さらにだんだん頭が重くなっていく。目を開けていられない。
平衡感覚もおかしくなって、どちらかも分からないが身体が大きく傾いた。波の音が一際大きく聞こえる。

(私、この状態のまま海の中に落ちたら死んじゃうかもしれないな)



『……アリスっ!』

どこか冷静に自分の死を覚悟していた。ただ、意識が落ちる瞬間、ここで聞こえるはずのないあの人が自分の名を呼ぶ声が聞こえて、最期に幻聴でも声が聴けてよかったと、そんなありふれた恋愛小説みたいなことをまさか自分が思うことになるとはと、こんなときなのに苦笑いしたい気持ちになった。



☆☆☆



『……ス、アリス』
『……が先に教えてやってなかったから……』
『だって……』


「……んん?」


周りでよく知った声が話をしているのが聞こえて来て、徐々に意識が浮上する。
倒れる前の右手の痛みや頭の重さなどはどこかに消えてしまっており、でもなぜか右手全体があったかい。そして誰かに握られている感触がある。

「アリス、気づいたのか?」
「………え?ブラッド……??」

(嘘、なんで!?というより大変、叱られる?)

目を開いたらブラッドが私の顔を覗き込んでいた。そのことの驚きに意識がはっきりと覚醒する。
勝手に出てきたことを叱られてしまうかと怯える私だったが、ブラッドの顔には怒りの表情はなく、どちらかと言えば安心したといわんばかりで、戸惑う。


これは一体どういう状態なのだろうか。


ここは海の家だろうか、少し回りを見てひとまず状況把握をしようとする。
私はビーチチェアーに横になっていた。そして気を失う原因となったと思われる右手にはタオルが巻かれていて、これが熱いようだ。さらにそのタオルに巻かれた手はブラッドの両手に握りこまれていた。

「あんたはクラゲの毒にやられたんだよ」
「あ、ボリス……」
「ごめんな、先に教えそびれちゃって」
「俺も言ってやれなくて悪かった。できたらあんたに何の不安もなく海を楽しんでもらいたくて」

少し遠くに耳をしおれさせたボリスが立っていた。さらにはゴーランドまで来てくれている。きっと私に何かがあったことを誰かから聞いたのだろう。
二人とも申し訳なさそうな表情をしている。その原因は私が倒れたことで間違いないのだろう。

クラゲの毒……、あの白いよく分からない物体はクラゲだったのか。
(そうか、だからあの一帯に人気がなかったのね。何で気が付かなかったのかしら)

岩場に行ったときあそこには全然人気がなかった。人が周りにいないことにあの時の私は喜んでいたが、そもそも人がいない地帯が普通できるはずがなかったのだ。あんなに大盛況な海なのに、人がいない場所があるということは、そこには何か理由があると疑うべきだった。
いつもならまずこんなミスはしないはずなのに、やっぱり気が抜けすぎている。私が悪いのに、心配させてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだ。



「えっと、あなたはどうしてここにいるのかしら」

声をかけるのも怖いが、早いこと聞いておかないと。視線を自分の横にいるブラッドに戻す。
気を失う前、最後に聞こえた私を呼ぶブラッドの声。あの時は幻聴だと思っていた、がもしかすると本物だったのかもしれない。

「もちろん君を探しに来たに決まっているだろう。さっさと仕事を終わらせていざ君の元へ帰ろうと思ったら、肝心の君が真夏の昼に逃げ出したと報告を受けたんだよ。仕方がないから直接私がここへ来ることになったんだ、本当に夏の熱さはいらだたしい」
「………あなた一人だけで?」
「ああ」
「何で敵地に一人で来るのよ馬鹿!!間違って攻撃されてたらどうするの」
「自分の妻を迎えに行くのに文句を言われる筋合いはない!」
「なっ!!」

大きな声で言われた『自分の妻』という言葉に、思わず絶句する。言葉を返したいのに、言うべき言葉が見つからなくて無駄に口をパクパクさせてしまう。
結婚式から他領土に出たことがないわけだから、この言葉を友達の前で堂々と言われるなんて初めてなわけで。

「なーんか当てられちゃってるよね俺ら」
「おい、お前わざとか帽子屋」
「別に私は事実を言っているだけだろう」

いやに堂々と目の前の男はしているが、こっちは恥ずかしくて隠れてしまいたい。
タオルケットが自分の上にかけられていたから、それを左手で持って顔を半分ぐらい隠した。

「君がパラソルの下からバケツやら網やら持って歩いていくのを見つけたから後ろをついていったわけだ」
「悪趣味ね」
「別に、気が付かなかった君が悪い。だんだん人気のないところに進んで行くから何をするのかと思ってね。そうしたら岩場に上って一人で楽しそうに……」
「あああ、ちょっと黙って」

(一人で楽しんでいたのを客観的にいわれるとこんなに恥ずかしいだなんて)
傍から見たらそうなのだろうが、少し黙っていてもらいたい。

「とにかく大きな岩の上で君が何かに触ってから、明らかに様子がおかしくなってさらに身体が倒れかけたから慌ててかけよったんだ。見てみたら周りはクラゲだらけで」
「そう………あなたが助けてくれたのね……、ありがとう」

勝手に後ろを付けるとかやめなさいよとか、先に声かけてくれたらよかったじゃないとか、色々言いたいことがないわけでもないが、助けられたことは事実なのだからお礼は言っておかないと。
ついでにもう一つ気になっていたことも聞いておく。

「このタオルは一体何なの?」
「ああ、クラゲの毒はタンパク質だからな、熱を加えると性質が変わって毒が無力化するんだ。毒によって身体の組織が破壊された後ならどうしようもないが、その前ならば一番効果的な対処方法だ」
「へええ……」

実物を見てもクラゲだと分かりもしなかったのだ。イラストで見るような傘が合って触手のある姿ならクラゲだとは分かるが、あんな風に水から出されてブヨブヨした半透明上の物体になってしまったら分からない。
クラゲに毒があるということは有名で知っていたが、その毒はかなりやっかいなものであるという知識ぐらいでそんな詳しいことなど知らない。私だってそもそも海で遊んだ記憶などほとんどないのだ。

「こんなふざけた遊園地に異常発生したクラゲだからどうなるかと思ったが君が意識を取り戻したことからして、クラゲ自体はそこまで異常ではなかったようだな」
「おいこら喧嘩打ってんのか帽子屋」
「黙れメリー。夏の終わりに海を造るなんて馬鹿げているにもほどがある。クラゲだってこんな時期に海なんて造るからでてきたんだろう」
「極限まで本物に近づけようとしたから仕方ないだろう。てか、クラゲが突然異常発生するほど本物そっくりな海になったなんてすごいだろ」
「……人の妻を殺しかけてよくそんなことを言えるな貴様。この前の取引はなかったことにしてもらおうか」
「ほんと大人げないやつだなー。あ、いやアリスにはほんと申し訳ないと思っているんだぜ。なんとか大事にはならなかったみたいだが、ほんと悪かったこの通りだ」
「いや、悪いの触った私だから。頭なんて下げないでよゴーランド」

ブラッドには険悪なムードではあるが、私に対しては必要以上に謝ってくれる。悪いのはこちらなのに……。
頭下げてもらうなんて大げさだ。むしろこちらが謝りたい。

「ごめんなさい、私の不注意で騒ぎにしちゃったみたいで。もうなんともないし、一旦帰らせてもらってもいいかしら?」

せっかく来たけれど、私がこの場にいる方が面倒事を引き起こしてしまいそうだ。それに、この状態で見つかってしまった以上、遊園地に長居することは無理だろう。
無責任な行動のような気もするが、早いこと撤退するのが良策なはずだ。

ビーチチェアーから身体を起こした。ポニーテールは横に寝かすのに邪魔だったのだろうか、はずされている。
すぐ横に髪をくくっていたはずのリボンが置いていたから、右手にまかれていた温タオルをはずし、リボンを持ってチェアーから立ち上がった。

「本当にごめんなさい。また改めてお詫びをしに来るわ。ほら、はやく行きましょブラッド」

とにかくこの人を帰らせないと後々面倒なことになるに決まってる。来てくれた二人に頭を下げて、今度は一人で来るという意思を込めて視線を送った。人の心情を察するのが得意な二人のことだ、苦笑いをしているとこからして、意図は汲み取ってくれたのだと思いたい。
私は空いている左手でブラッドの手を掴んでそのまま出て行こうとした。

「ちょっと待ちなさい」
「っわわ!?」

引っ張っていくつもりで強く引いた手を逆に引き戻されたせいで背中が大きく反り返った。
一体なんだというのか。

「何するのよ」
「奥さん、髪はくくらないのか?」
「はぁ?というか人前でそう呼ばないで」
「だって奥さんは奥さんだろう」
「……。帰る」

事実は事実だが、そんなことを友人たちの前で言われるほどその言葉に慣れているわけではない。確かに何も間違ってはいないが、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
ちょっとイラッとしてもう自分だけでも帰ってやろうかと思い(私がいなければ遊園地にいる意味がないのだから私さえ帰れば問題はなくなる)、掴んでいた手をはずそうとしたらいつの間にかしっかり握りこまれていた。これでは帰れない。

「ちょっと待ちなさい。……右手が問題なく動かせるかどうかの確認のためにも髪をくくってはくれないか?」
「あっ…そういうこと。ごめんなさい、分かったわ」

ただのからかいじゃなくて、意図があってのことだったのか。わざとらしい奥さん呼びはからかう意図もあったとは思うが、それにすぐむきになってしまうのは私の悪いくせだ。
髪をあげる作業は意外と細やかな指使いを必要とする。それが違和感なくできたのなら、刺された右手の心配もいらないだろう。

右手で持ったままだったリボンを口にくわえ髪を上げる。手グシだからいつものようにぴっしりとはできないが、手の動きにはなんら問題はない。
最後にまとめた髪をリボンで縛って、自分の長い髪をポニーテールにした。

「ほら、手は大丈夫よ。これでいい?」
「ああ、そうだな。とてもいい」

ブラッドに後ろを向いたまま髪をくくっていたので、ポニーテールにした後振り返ってブラッドの方を見る。ブラッドはなんというか、にんまりといった表情で笑っていた。
嫌な感じの笑い方だ。これ以上余計なことは勘弁したいというのに。

「大丈夫だと分かったら問題ない。こんなところに長居は無用だ、帰るぞ」
「わわわ、ちょっと!」

さっきとは真逆で、私がブラッドに出入り口へ手を引かれる。
後ろ姿しか見えない私からはブラッドの表情は見えないが、入口の近くで立っていたゴーランドに視線を送ったようだ。

「私の妻がお世話になったな」
「帽子屋てめぇ……、当てつけかこら」
「どうとでもとるがいい。人の妻にこれからは妙なことはするなよ二人とも」

ちゃんと別れの挨拶をしたいところだが、ブラッドの足は止まらず、もはや引っ張られるように二人の前を通りすぎることになる。

「ほんとごめんなさい。絶対今度またくるから」
「いいっていいって。それにしてもあんたほんと面倒なのに引っかかったな…」
「え?」
「いや。じゃあな、アリス」
「またね、今度はちゃんと遊ぼうな」

ゴーランドの言葉の一部がうまく聞き取れなかった。
二人とも苦笑いというか、かわいそうな子を見る目というか、そんな表情をしているのがとても気になったが、腕をひかれるままその場を立ち去る。



やっぱりいたのは海の家のようなところだったのだろう、出た先は硬い地面だがそこから少ししたら砂浜が広がっていた。
外に出た瞬間、再び浴びる熱い日差しに思わず声が漏れる。帽子があるぶんマシそうだが、ブラッドにとってのそれは私の比ではなかったようだ。

「暑い……。夏の昼など人が生きる環境じゃないだろう。だるい」
「ちょっとそれは言い過ぎ」

地底を這うような声音をしている。しかし、足取りは変わらない。
出入り口に向かってスタスタを歩みを進める。

「待って、私の服は!?これも借り物なのに」
「水着代は心配ない。服も後で戻してやるから」
「いや、戻せるのなら今戻してくれたらいいじゃない」

役持ちなら誰でもできるらしい、服の早着替え。舞踏会の時など、私も体験したことは何度かある。原理は知らないけれど、おそらくブラッドができるというならばすぐいつもの服に着替えることができるのだろう。

(でも、それならさっさとしてくれたらいいのに)

騒めきと集まる視線を感じるのは被害妄想ではないだろう。
ブラッドの服はいつも通りの白い騎乗服のようなもの。帽子もかぶったままだから、遠目でもすぐブラッドだと分かってしまう。そんな姿で水着姿の女を引っ張り歩いていれば当然視線を集めるだろう。

私と結婚したことが広まっているのかどうか、ずっと屋敷内にいた私には知りようもなかったことだが、なんとなく嬉々として広めたような予感がする。『あれってもしかして噂の……』ていう言葉が聞こえるところからして、私の考えは外れていないだろう。
もし話を聞いていてこんな場面を目撃したならば、おそらくデートではなく修羅場だと想像するに違いない。これ以上余計な噂は真っ平だ。

「……そういえば、怒っていないの?」
「怒っていないと思っているのか?」
「………」

(もしかしてこれお仕置き的な意味合いがあってのことなのかしら)
それなら大きく文句が言えない。

「怒っていないわけではないが、気分のいいこともあったからな」
「えっ??」
「閉じ込めるだけじゃなくて、見せびらかすこともいいなという話だよ」
「何よそれ?わっ!!」

突然立ち止まられたせいで、ブラッドの背中に衝突した。手を引っ張られて歩いていたのだから、同じように止まれるわけがない。ぶつけた鼻が痛い。
でも文句を言う前に、その手段を封じ込められてしまった。

「ちょ!?……あっ…」

顎を掴まれてこれはやばいと思ったときには、もう遅かった。
塞がれた唇。それも一瞬で離れることもなくて、無理やりこじ開けられた口の中に熱い舌が入り込んで来る。

(ここをどこだと思って…!)

ただでさえ視線が集まっていたというのに、なんてことをしてくるのか。
入り込んでくる舌に噛みつこうとするが、そんな抵抗は難なくかわされてしまう。むしろ息継ぎのタイミングをきっとわざとだろうが、狂わされてしまい酸素が足りずクラクラし始める。
ここがどこなのか、周りの喧噪がなくなって静まり返っていることも、思考からかき消されていく。
どれだけの時間そうされていたのだろうか、ようやく口が離された時には体の力が抜けて、へたり込んでしまっていた。

ブラッドが指を鳴らし、時計の針が重なるような音がして私の服がいつもの青いワンピースに変わる。遠くにいた人でも、私の特徴的ともいえるこの服見たのなら相手が私だったと分かってしまうだろう。
怒りと羞恥で声が出せない。

「さて、帰るぞ」

へたり込んだ私を抱きかかえて、何事もなかったかのように歩き出すブラッド。
抱きかかえ方はもちろんお姫様抱っこ。これ以上恥ずかしいことなんてないんじゃないかというぐらいに恥ずかしい。もはや涙目どころか軽く泣いている。

「あんたなんて大っ嫌い……」
「それはどうも。私は愛しているぞ、可愛らしい私の奥さん」

本当ならば叩きのめして、靴底で思い切り足を踏んで、ぼこぼこにしたいところではあるが、それよりなによりこの場にとどまり続けることの方が私にとっては何よりも苦痛だ。
すぐに謝りに行きたいと思っていたが、しばらくは遊園地に行くことができないかもしれない。
ブラッドの胸に顔をうずめて、周りがどんな反応をしているのか見ないように、そして何より自分がどんな顔をしているのか見せないようにするのが唯一私ができること。

遊園地から出るまで、ずっとその状態でいるしかなかった。






だが、本当に羞恥で死にたくなったのはその後のことであった。

遊園地から出てから必死に暴れたおかげか、思ったよりすんなりブラッドの腕から下してもらえた。だが、その後できることといったらブラッドの足を全体重を持って踏みつぶすことぐらいで。
向こうで帰ると宣言した以上帰るしか道はないから、無言のまま一切顔を上げないでそのまま屋敷に戻った。


屋敷に戻った後そのままこれまでのことは忘れて眠ってしまいたい気持ちもないではなかったが、夏で汗もかいたし、何より海水に一部入ったのにかかわらずシャワーを浴びることなく帰ってきたのだから、お風呂に入りたくて仕方がなく。
部屋のシャワーでもよかったのだが、この数時間帯の精神的なダメージを癒すため、誰も入っていなかったこともあり大浴場に向かった。

いきなり浴槽につかるのもアレだから、一度全身をシャワーで洗い流す。当然他人がいないわけだから、シャワーを流す時にタオルは身体に巻かない。
まだ残っている赤い痕にうんざりしながらシャワーをかけていたときのことだ。



………振り返って見た背中にも多数の赤いものが見えたのは



カランカラン
手から離れたシャワーが床のタイルに無残に打ちつけられた音が浴室に響き渡る。上を向いたシャワーから出るお湯が、鏡を濡らして移す景色は揺らいでいるがそれでも赤いものは消えてはくれなかった。


時々気になったことの全てが、一気に解決した。
水着を見せたときのボリスの表情が固まっていたこと。ポニーテールにくくったときのブラッドの邪心のある笑み。別れ際の二人の私への同情の視線。

これならブラッドのさぞや気分がよろしかったことだろう。勝手に抜け出たことを責める気をなくすほどに。
結婚指輪を付けて、所有印まで付けて夏のビーチでうろうろしていたのならば。
きっとすぐ私に声をかけなかったというのもこれがあったからに違いない。

大浴場の着替え場ならまだしも、海やプールの水着の着替え場に鏡はだいたいおいていない。シャワールームにはあることもあるが、着替えの際鏡を見かけなかった。
背中なんて見ようと思っても自分で見えないし、それに、一番目立つ部分の痕を隠せたことに安心しきっていた。

(気づいたらすぐ教えなさいよ、馬鹿猫)

教えたら帰ると思ったのか、もしくは気づかずに終わるだろうと思ったのだろうか。
気づかないままでいられたのならばどれだけ幸せだったことか。知ってしまった今としては、いますぐあの時の私を引っ張って帰りたい。



そのままどれだけの間放心していたのだろうか。
そんなに長い時間ではなかったはずだが、ガラガラガラ、という突然ドアの開く音に身体が面白いほどに跳ねた。
ゆっくりと振り向いた私の目に映ったのは、少し前に悶絶させてから別れたあの男。その顔に浮かぶ笑みを見て、むかつく気持ちとやられたという気持ちとが入り混じる。
逃げだしたいが、出入り口は現在進行形で塞がっている。どう考えても逃げ場はない。


「もう覚悟はできているだろう?いつも以上に優しく愛してやろう」


あんたに抱かれる覚悟なんてこれまで一度だってしたことあるものですか、そこまで開き直ったことなんてないわ。
という一言も出せない私はにじり寄ってくるものから、自分で落としたシャワーを踏んでひっくり返るまで同じくジリジリ後退するしかなかった。










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