本心を言えない二人のねじれ





本心を言えない二人のねじれ






厨房の前を通りがかったとき、ブラッドは青いエプロンドレスの少女が料理をしているのを見た。言うまでもなくアリスである。

貸切で使っているのか、厨房にはアリス以外の人物はいないようだ。
ちらりと見えた表情はとても楽しそうなもので、最近ではなかなか身近でみることのできなくなった顔でもある。
別にこそこそする必要もないのだろうが、自分がいる出入り口の方に視線が向けられそうになったときに思わず隠れてしまった。一体自分は何をしているのだか。

少し待ってからもう一度覗いてみると後ろを向いていたので、今度はアリスではなくその近くの台に目を向ける。そこにはふたのできる容器が置かれていて、またチーズらしきものも見える。
そして彼女は今コンロの前で作業をしているが、なにやら魚の焼ける香りがこちらまで漂ってきている。

(全く誰のための料理か、これ以上分かりやすいものはないな)

今作っているものがすべて完成したら、彼女は間違いなく森へ行くのだろう。
遊園地から飛ばされて今は一人(一匹?)で生活している猫のことを気に病んでいるようであったし、その猫に追いかけられる嫌われ者の鼠のことも同じく心配しているようであった。ブラッドとしては余計な心配としか言いようがないことであるが。
どちらとも小動物ではあるものの、彼女に心配されるほど弱い生き物ではない。チェシャ猫の遊園地という住処がなくなったことも心配しているそうだが、だてにチェシャ猫という名を彼は持っていない。どうせどこかの部屋を繋げて持っているはずだ。
それにピアスだって、家出をしていてもファミリーから抜け出ていないことには意味はある。あれはあれで自分もわざわざ本気で怒らせるようなことはしたくないと思う程度には、怖い部分を持った鼠だ。心配なんて不要のものとしか言いようがない。

ただ、どちらともアリスが来たらたいそう喜ぶことは火を見るよりも明らかだ。
その上自分のために手作り料理を持ってきてくれたと知れば、その喜び具合もたいそうなものだろう。
………とても不愉快だ。

その事実だけでも不愉快なことではあるが何より自分以外の、ましてや他の男に作る料理をアリスがとても楽しそうに作っているということが、何よりも気分が悪い。
最近のアリスはもはや笑顔を見せることすらあまりないのだ。
迷惑そうな顔、蔑むような視線、怒りの表情、そんなある意味これまでロクに見たことのなく以前ならば珍しいが、別に好き好んでは見たいわけではないアリスの顔はいやというほど見ている。ブラッドがクローバーの塔でアリスを抱いてから、アリスは少なくともブラッドの前では明るい表情をすることがなくなった。自主的に部屋に来ることもなくなった。
身体は本人よりもよく知ったものとなったが、心は硬い膜に覆われてしまったように感じている。




『いつも勉強を教えてくれているお礼に今度なにかお茶菓子でも作ってもってくるわね』
(間違いなく君はそういっただろう)

以前確かにした口約束。もしかしたら、もうアリスはすっかり忘れているのかもしれない。

『それならば、君の手作り菓子に合うとびきりの紅茶を用意しないといけないな』
『ちょ、ちょっと。そんなハードルあげるようなことはいわないでよ』
『なに、君が私の期待に応えるようなお菓子を作ったらいいだけだろう』
『そんな期待して、後で後悔したって知らないんだから』
『ふふ、君の作ったもので後悔なんてするはずないじゃないか』




ブラッドは忘れていない。近くはないが遠くもない、少し前の記憶。上司部下の関係になって少し離れた距離を取り戻しかけていた時期のこと。前回の会合の始まる少し前だっただろうか。
あのときの照れたようなはにかみも、はつらつとした笑顔もしっかり覚えている。
どんなお茶菓子を作るのかは聞いていなかったが、彼女との特別なお茶会のために特別な紅茶を用意していた。何を自分のために作ってくれるのか楽しみにもしていた。
それなのにその約束は果たされることもなく、今アリスはそんなことがなかったかのように他の男どものために料理を作っている。

これで機嫌が悪くならずにいられるはずがない。




「森の動物たちに逢引に行くのかなお嬢さん?」
「っ!?……ブラッド」
「交友関係が広いようでなによりだな」
「……何か文句でもあるのかしら?」
「別に、君が厨房を貸し切って何かをしていたようだからちょっと声をかけただけだよ」

厨房に入って声をかけた瞬間、アリスの表情が固まる。
驚いた顔、不審げな顔、無表情に近い顔。言葉を重ねるごとに変化していった表情だが、どれもブラッドの好まないものばかりだ。
ゆっくりとアリスに近づいていく。彼女が真ん前で立っているフライパンの中からの、焼けた魚の香ばしい香りが強くなった。

「手作り料理を振舞いに行くほど仲がよかったとは、私も知らなかったな」
「別にあなたにはなんの関わりのない話でしょ」
「へぇ………、なんの関わりもないねぇ…」

話をする気はないという意思表示かこちらから視線をはずし、料理に向かってしまう。
だが、これだけで終わらせる気などない。ブラッドはすぐそばにまで寄ったアリスを後ろから抱え込み、腰に手を伸ばしてそっと下から上に指で撫でた。
それだけで、アリスはピクリと身体を震わせる。

「やだ、離して」

アリスは驚いて暴れるが、ブラッドは逆に拘束の手を強めた。

「ほら、こうやって後ろから抱き付かれたら君はもう身動きが取れない」
「何をっ」

もう一度脇腹から胸辺りまで軽くなでると、腕の中でアリスが小さく震えた。

「こんな愛撫が可愛らしいと思えるようなことをいつもされてる私に何の関わりもないとは、ずいぶんつれないじゃないか」
「それはあなたが勝手に」
「そうか、いつも君だって気持ちよさそうに……」
「うるさいっ」

さらに激しく腕をばたつかせて離れようとするアリスに笑みが浮かぶ。そんな抵抗したところで、逃げられるはずもないのに。

「そんな可愛らしい抵抗しても男を煽るだけだよ」
「離しなさいって」
「手作り料理を持ってきてくれるなんて男は自分に気があるんじゃないかと期待するものだ。何が起こっても責任は押し付けられないぞ」
「いいから離してって言っているでしょ!!」
「っつ!!」

拘束を解こうと暴れても無駄だと悟ったアリスが思い切りブラッドの足をかかとで踏んづけた。そうだ、彼女は足癖も悪いんだ。
さすがにそこそこに硬いアリスの靴底で力いっぱい踏まれたら痛い。拘束していた腕が緩み、そのタイミングでアリスは当然抜け出した。

「余計なお世話よ。それに、みんな友達よあなたなんかと同じにしないで」
「っつ。………私と同じにしないでとはそどういう意味かな」
「誰でもあなたみたいに誰にでも見境なく手を出すような不誠実な人じゃないって意味よ。分かったらとっとと出て行って」

痛いじゃないかと、文句を言おうとしたブラッドであったが、アリスの表情を見て固まった。
怒って顔を真っ赤にしているのは想像に難くなかったが、それ以上に今にも泣きそうな表情をしていることに動揺する。

少しひるんだが、ただ一言だけは言っておきたい。


「確かに私は不誠実な人間かもしれないが、君に対して不誠実な態度をとっているつもりはないぞ」
「……どこが!!」
「どこがと言われても、すべてとしかいいうようがないが」
「………」


アリスは口を開けて絶句している。




ブラッドとしてはこれ以上ないほど誠実に付き合っているつもりだ。

きっとアリスが言いたい不誠実というのは女付き合いのことだろう。
たしかに、これまでのしてきた女関係は最初から身体だけの付き合い。こちらも本気じゃないし、いくらそちらが気持ちを寄せて来てもはなから相手をする気はないことは最初から承諾させていた。
言ってみれば、ただの性欲処理の相手でしかない。

でも、彼女は全くちがう。
純粋な関係を望んでいるとこの前彼女に告げた言葉にも何ら嘘はない。

これまでの付き合いのある女性には文章だけだが、断る旨を伝えているし、彼女と関係をもって以降他の女を抱いたことは一度もない。
抱く時だってこれまでにないほど大切に大切にしてきている。痛くないように時間をかけて昔のことなど忘れるような快感に溺れられるように。
自分の快楽を求めるだけの存在としかみなかったこれまでの女たちとは何もかも違う。

むしろ、抱かれながら他の男を思い浮かべる彼女の方が、純粋とはいいがたいだろう。
たとえそれが、自分が彼女を抱くための口実として必要なものであったとしても……

はじめは代わりででもいいかと自分らしくもなく思っていたが、今はそんな馬鹿らしい考えなど持ってはいない。自分の顔を見て思い浮かべるのは自分だけで、想う相手も心と身体を開く相手も自分だけにさせてやりたい。
そのためなら、いくらでも時間も手間もかけてやる。


………今何よりほしいものは彼女の心なのだから。





ただ、そう思っているから、アリスの不誠実という言葉が、自分のアリスへの対応の仕方だけではなく、アリスへの感情の持ちようにかかっていることには気づけない(正確には気持ちを持って接しているように思えないということだが)。アリスは愛情もなしに自分を抱くという行為のことを指しているのに分からない。

それは、ブラッドはアリスに対して恋愛感情をすでに持っているから。




「あなたとは、会話が成立しないことがよくわかったわ。もうどうでもいいから出てってちょうだい」

いつの間にか、彼女の顔は心底呆れたといわんばかりの表情に変わっていた。
今この場で会話を続けても、意味はないかもしれない。それならまたの機会を作ればいいだけのこと。

「もともと外に出る前に通りかかっただけだからな、別に君の邪魔をする気はないさ」
「…………」
「これから3回目の夜に部屋に来なさい」
「…………」

返事を返すこともなくアリスは後ろを向いてしまった。
その言葉を告げてブラッドは調理場を出て行く。アリスに言った通り、別にアリスを探していたわけではなく、ただ外に出るときに見かけて声をかけただけだ。もとから長居する時間もない。


アリスは何も反応を返さなかったが、どんな態度をとったとしても彼女は言った通りに部屋にくるだろう。どんなに険悪な空気になっていたときだって彼女はこういう約束を破ったことはない。
話はそのときにでもゆっくりしたらいい。会話が成立しないというのなら身体に語りかければいい。

ロクに手も何も出さなかった彼女の元家庭教師と自分とは何もかも違う。
関心があるから触れたいと思うし、実際に触れる。今も過去もすべて支配したいと思う。ただ口先だけの付き合いしかせず挙句の果てに彼女を捨てた男などと比べられるのは反吐が出るし、そんな男より自分が劣っているだなんて、認められるはずがない。
彼女が今一体誰のものなのか、今一度はっきり理解してもらわないといけないだろう。

それに彼女だけでなくて、周りに広めることも必要のような気がする。記憶の中の想い人だけを相手するのでなくて、今いる男どもにも分からせないと。
思い出の中に住むけして消せない昔の男というのも面倒なのに、これ以上邪魔な存在はいらない。

それに外堀を埋めてしまえば、彼女も自分の立場についてよくわかるだろう。


「君は何があっても私のものだ」




☆☆☆




一人に戻った調理場で、アリスはふと気を抜いたら流れそうになる涙を目を見開くことでこらえようとしていた。
こんなことで泣くことはアリスのプライドが許さない。あまりにも自分が惨めすぎる。

ブラッドに邪魔をされたせいで、火にかけていたフライパンからは焦げ臭いにおいがする。魚はもう、少なくとも他人にあげるものとしては不適切な代物になっていた。
まだ材料は残っているが、あれだけ変に声をかけられた後では作りなおす気にもなれない。


今回料理を作っていたことには本人は知らなくて当然だが、ブラッドのことが関わっていた。
アリスは森にいるボリスに相談しに行こうと思っていたのだ。どうしたら喧嘩(というわけではないが)で気まずくなった相手(名前は出さない)と、以前した手作りお菓子をあげる約束を果たすことができるのか、について。

ナイトメアに相談したら、彼に付随するあれやこれやの記憶まで読まれてしまうから無理。グレイとはそこまで気安い関係をまだ築けているとはいいがたいし、相談相手としては微妙な気がする。よって塔に相談へいけない。
城の男性メンバーは相談事に向かないし。ビバルディはいい相談相手になってくれそうだが、その見返りが少々怖い。色々詳しい話を何だかんだと白状させられそうで、相談するにしてもできるだけ後に回したい。

そんな中でボリスなら相談しやすいし、ある程度察してくれて深く追求されることもなさそうだと考えた。チャラけた色合いをしたパンク系な男の子だが、意外と適格なアドバイスをくれることも多い。器用で賢い猫だ。
ただ、(向こうは気にしないと思うけど)なんの手土産もなく相談にのってもらいに行くというのも恥ずかしい。だから、今のボリスの住処について心配する気持ちもあるし何か食事でも作って持っていこうと思ったのだ。

ちなみにチーズについては、もし途中でピアスに出会ったときにボリスへの食べ物だけで、自分へのものがなかったらあのネズミさんは深く落ち込むかもしれないと思って用意したもの。ちょっと対応の差を考えるとピアスがかわいそうだが、それを知ってもあのネズミさんはチーズをもらえることに喜んでもらえるだろう。
あまり料理らしい料理も知らないから、チーズに関しては小さく切って野菜とかベーコンとかで串刺しにして持っていこうかと思っていた。


でも途中でそのブラッドが邪魔をするわ、変に忠告してくるわで散々だ。
約束をしたのにそのままになっているのを、向こうはもう忘れているかもしれないけど果たしたくて。でも今、手作り菓子を気軽に届けられる間柄じゃなくなってしまったし自分も前のようにブラッドに向かうことが少し怖くて。だからこそアドバイスをもらうための準備をしていたのに。なんであんな屈辱的な説教を受けなければならなかったのか。
こんなことなら最初からこんな計画立てなければよかった。約束を果たせないような状況に自分を置かせたのは向こうだし。ただの口だけの約束とはいえちゃんと果たしたいと思ったからの行動だったのに。


『君を愛しているわけではない』


そういわれたのはまだ記憶に新しい。そんな人に「誠実に付き合っているつもりだ」、だなど言われても馬鹿にされているようにしか思えない。
そもそも愛情もなく女の人を抱ける男なんて普通に考えて信用していいわけがない。潔癖な乙女を気取るわけではないが、不潔といいたい。

もう自分の知らない香水の香りをブラッドから嗅ぎ取ることはなくなったけれど。それは自分という新しい玩具を見つけたからにすぎないと、アリスは信じて疑わない。誰かに愛されることなんてきっとないと自分を評価しているアリスにとって、まさかそれがただの照れ隠しに過ぎないものだなんて一瞬たりとも思い浮かばない。


「何がすべてにおいて誠実よ。……それならそれらしい言葉の一つでも言ってみなさいよ」

本当にそんなことを言われたら、戯れだとしても自分は完全に落ちてしまうだろうと分かっていてもそんな文句が口から飛び出す。そうでなくとも没落寸前のような有様なのだ。
今でも、勘違いしてしまいそうな態度や言葉を不意打ちでしてくるから、こちらの心がもたないというのに。

さっきのも可愛らしい嫉妬なのだと分かったものだったならまだ相手に素直になれたかもしれないが、そんなはずはない。恋愛感情からくるものではなく、ただ一度自分のものだと思ったものを手放したくないっていうしょうもない支配欲。それがものじゃなくて自分というヒトであったというだけのこと。
そんなものに振り回されるなんて、やっていられない。

(私は私のものなんだから)

これだけは譲れない。


どうせ飽きられるのは分かっていること。それまで自分の心が守れるかどうかが勝負だ。
用済みとされたとき、そのときに耐えられるような自分を保ちつづけないといけない。自分だけが一方的にのめりこまないように壁をつくらないと、いつか来る別れの時に自分の心が壊れてしまう。
絶対に振られる恋なんて愚かすぎる。


「私はもう誰も好きになったりしないんだから。恋なんて、こりごりよ」


服の裾を握り締めて、自分に言い聞かせるようにそう口に出すアリス。それが恋なんてしていなかったら出てくるわけのないセリフというのも分かっているのに。
調理室に響いた、その声はかすかに震えていた。









どこのボタンを掛け違えたら、こんなに二人の考えはズレるのだろうか。相手に抱く想いは同じはずなのに、決定的な思い違いが二人の溝を深めていく。
きっとどちらかのたった一つの言葉ですべてはうまくいに違いない。でも、互いに素直にその言葉を口に出せないからこそ、関係はさらなる悪化の一方を辿ってしまう。

お互いの似た性格が、まず自分自身の気持ちに素直になれないから最初の一歩が踏み出せない。その上変に身体だけが先に繋がってしまったから、置いていかれた心が悲鳴を上げてやまない。

その心が壊れてしまう前に二人が互いの行動だけで心解かされいくのは、もう少し先のお話。










NOVELに戻る