それでもずっと……





それでもずっと……





いまいましい道化が去ったと同時にあの少女も消えた。

今はハートでもクローバーでも、ましてやジョーカーでもない国。
彼女が消えてわめき騒ぐと思っていた白ウサギは、彼女が最初からいなかったかのような振る舞いで、むしろ気持ち悪いほど。迷子の騎士は今まで以上に城でみかけることがなくなった。

唯一自分の時間が止まり、世界も止まるあの美しい薔薇園さえも、今の国には存在しない。


あの少女がいたということは自分の記憶の中にしかなく、すべて幻であったのかとさえ思ってしまうほど。
役なしの誰かがたまに話をしているのを聞いて、ただの妄想でなかったと安心するような日々。

イライラはこれまであの子が抑えていた分が降りかかっているように増して、毎時間何人も処刑を命じている。そんなことをしても抑えられるわけがないと自分でわかっていても止められない。止める術などはなから持ち合わせていないのだから、止められるはずがない。

だから、雑務を放り投げてわらわは今庭に出て来ていた。今までなら落ち着いた、真っ赤な空を眺めても苛立ちは収まらず、そのままこっそりと抜け出してきたのだ。
庭園を歩いているとふと見事に咲き誇った生垣の薔薇ではなく、下に生えている小さな小さな花に目がいった。薔薇がメインであるこの庭園からしたらそれは雑草でしかないのだが、なぜかわらわの目に止まった。

そして同時に初めて自分を見たときのアリスの顔を思いだす。

自分を見て、しまったという感情と怯えの混ざった表情を浮かべた少女を城の中で見かけたときには、知らないものが自分の城を堂々と歩きまわっていることに苛立ちを感じた。あのときそのまま感情にまかせて首をはねないでよかったと心底思う。
その後、動く鼓動というものをを初めて感じたときには恐ろしいような羨ましいような、複雑な気持ちになった。

会話を何度か交わした後でもこの脈打つものをこの手で壊すことができたのならば、どれだけ気持ちがよいのだろうかと考えなかったといえば嘘になる。
余所者とは愛すべき存在。だがこんな自分に愛しいと思えるものなどできるはずがないと思っていた。味方にもならないものをただ生かしておくことよりも、ハートが止まっても消えうせることのない唯一の身体を眺めてみたいと思っていた。
しかし、それは実現することはなかった。

(噂通り、わらわも彼女を愛したから。)

平凡な何の力もないただ小娘でありながら、この世界を何も持たずそのただ一つの身だけで歩き回る。そこそこ頭はきれるのに、馬鹿みたいに自分に自信がない。でも、自分以外の存在には、どうでもいい役なし一人ひとりにまで心を注ぐ。
硬いハートしか埋まっていないこの胸が彼女と触れ合うだけで、気のせいに違いないのに温かくなったように感じた。
無意味な存在の自分たちに心を注ぐなど、なんて愛しく愚かな娘なのだろうか。


クローバーの国で引っ越しを体験したときの慌てようといえばいいようがない。盤面は回るもので地形も動くもの。正直アリスが慌てふためいたことは解せなかった。
ただすぐ会えなくなっただけの時計屋と侯爵に対し、あんなに取り乱していたことも同様だ。

この国にいない。二度と会えないわけではないが次会うのはいつになるかは分からない。
そう告げたときにくちびるを噛みしめるアリスを見たときには……。嘲りか呆れか憧れか憎しみか、アリスや弾かれたものたちにさまざまな感情が浮かんだものだ。

「感情……??」

今思いだしてみて初めて、そういえばと思う。
自分の中には消えることのない苛立ちだけしかないはずだったのに、アリスといるとないはずの感情が生まれて驚くばかりだったのだ。


忌ま忌ましい道化が出てきたときには、アリスの記憶がおかしくなっていることで、もうリミットが近づいてきているのだと悟った。
あの子が何に囚われ監獄に誘われるのか。それはあの子自身も覚えていないようだが、その記憶を封じこめているのは夢魔であろう。あの子を連れてくるのに夢魔の力を借りたというのは前にあのウサギから聞きだした。
夢魔があの子を世界に連れて来るために、最初から記憶が変わっていること自体はそこまでの問題ではない。それはおそらくアリスをこの世界に連れてくるためにしなくてはならないものだったのであろう。
ただこの世界に来てからの記憶があやふやになるというのは大問題だ。異質で隔離された存在であるはずの余所者がこの世界からの直接な干渉を受けるようになったのならば、余所者は余所者ではいられない。

サーカスという特別な期間が終わってしまえば、あの子は徐々に世界に取り込まれていってしまうだろう。余所者からこの世界の住人へ。
脈打つ心臓はただ同じリズムを刻むだけの無機質な音を鳴らす時計へと変化し、

そして無数に増えていく。




「あのサーカスでのさよならはわらわからお前ではないよ。お前がわらわの前から消えてしまうのだろう?」

しゃがみこんで手元の小さな花を地面から引き抜く。荒い手つきだったせいか、花びらが散ってしまった。
手元には萎びれた茎だけが残る。


この世界の住人になるのはただたんに心臓が時計に変わるということではない。心が凍ってしまうのだ。大事であったはずのことが薄れて消えていってしまう。
そして無意味なゲームに身を落とすことになる。

あんなに命を大切にしてほしい、といい続けた少女は自らの手で武器を持ち、他の役持ちと殺し合いのゲームを始めてしまうのだろう。
他者の怪我に怒りと悲しみの表情を浮かべた少女はこの世界から永遠に消えてしまう。


お節介にもあの夢魔はわらわの夢にアリスの現状を伝えにきよった。あの子は別の盤面ではなく、別の時間軸に飛ばされたらしい。今まで以上にこの世界のことを知り、そして……初期症状は出てきたのだとか。


「お前を知らない他の軸のわらわなら、新しい敵に喜ぶかもしれないが………。ここにいるわらわは……」


次に自分の前に現れるアリスがどうなっているのか……。
そこまでは、誰にも分からない。
あの白ウサギは最初からこうなることが望みだったのだろうか。でもわらわは……



「薔薇園で微笑むあの子を、永遠に閉じ込めておきたかった」



あのとき確かにあった瞬間はおそらくきっと戻りはしない。
時間は無情で、願っても止まらないし恨んでも戻ってこない。受け止めるしかないのだ。
それは誰よりも知っているはずなのに……

「それでも願わずにはいられない。……お前はほんに罪深い女だよ」

ぐしゃぐしゃになった手の中の茎を眺める。

次巡り合ったときには彼女はどんな顔を自分に見せるだろうか。
冷たい表情しか向けてくれないのだろうか。かつて共に過ごしたことは脈打つ心臓とともにどこかに消えてしまい、自分のことは消さなくてはいけない敵の一人でしかなくなっているのだろうか。
タイプは違うが姉のようだと、そういって微笑んだ彼女は二度と見られないのだろうか。

「会いたいのに会いたくない。……お前が最後にわらわにくれた感情は“恐怖”なのかもしれないね」

そう、ここにはいない少女に語り掛けた。




「さて、煩わしい役に戻るとしよう」

手の中の汚らしくなったものを放り投げ、立ち上がる。地面にすれてしまっていた裾を払った。

どうせ頼まなくともいずれアリスは自分の前に姿を現す。
その時までは、わらわの記憶の中のアリスだけが唯一のアリス。

少し歩きだしてからふと先ほどまでいた場所を振り返った。自分がしゃがんでいたところには花と呼ぶには無残すぎるものが散っている。


「どうなっても、お前は最初で最後のわらわの親友じゃ……」










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