菊の香薫る佳き日に





菊の香薫る佳き日に





「菊酒というものを知っているかな、お嬢さん?」
いつになく上機嫌なブラッドに尋ねられ、アリスは首を捻った。
「菊酒……?何、それ」
「古い文献に、菊の宴という行事が載っていてな。観菊しながら、菊の花を杯に浮かべ、高所で飲むらしい」
アリスは首を傾げた。高所とブラッドは言うが、どう考えても此処は高い所ではない。帽子屋領自体が平野に位置するせいだろうが、高い所を探すのは難しい。
「そうやって飲むのが、菊酒って言うの?」
「ああ。それと、地方によっては栗飯を炊いたりするらしいな」
先程から酒に浮かんでいる小さな黄色い花が気になっていたのだが、成る程そういう趣旨かとアリスは漸く納得した。
ブラッドが紅茶ではなく酒を飲むのも珍しいと思っていたのだが、それは何時もの気まぐれだろう。彼の上機嫌は酒が入っているせいでもあるようだ。
今、アリスとブラッドは帽子屋領の一画で、月見の時の着物姿で杯を傾けている。美しい菊が清楚な姿で並んでおり、一面に咲き乱れていた薔薇や秋桜とはまた違った趣を楽しめる。
今回、双子とエリオットは屋敷に置いて来たらしい。騒がしいだの何だのと言っていたが、言葉の端々からアリスにこの美しい景色を見せたかったのだということが僅かながらも察することが出来、密かにアリスも浮足立っていたりするのだ。
「ただその菊酒を飲む為だけに、そんな行事を催すの?」
「いや、一応不老長寿を祈って飲むらしい。まあ私達にはあまり関係の無い話だが」
「そうよね………」
この狂った世界では、年齢すら自由に操作出来る。進めたり、戻したり。よく外見を変える屋敷の双子がいい例だ。
「要するに、酒を飲む口実なのね」
「察しが良いじゃないかお嬢さん」
にやりと笑まれる。次の瞬間、唇に温かい感触が下りた。
一瞬何が起こったのか理解出来なかった。ぽかんとしてブラッドを見上げると、彼はこちらに艶っぽく微笑みかける。
「………顔が赤いぞ、お嬢さん」
「………酔ったせいよ!!」
そっぽを向いて言う。実際は酔ったも何もまだ一口も飲んでいないのだが、この男にはお見通しだったのだろう。それは愉しそうに喉の奥で笑うブラッドに、アリスは暫し黙り込んだ。
「……アリス?どうか」
流石に不安になったのか、ブラッドがこちらの顔を覗き込む。だが、その言葉は途中で不自然に途切れた。
着物の衿元を引っつかんだアリスが、ブラッドの唇に自らのそれを押し付けたのである。
純粋な驚きだけを全面に押し出したブラッドに思わず笑みが漏れる。だが、経験値の圧倒的に少ない彼女は直ぐにブラッドに翻弄されることになった。
「………やるじゃないか」
唇を離され、舌に移った酒の残滓にアリスは軽く酩酊した。ブラッドは水でも飲むようにかぱかぱ空けていたのだが、とんでもない。ブラッドにつられなくて良かった、と思い、安心したのだろうか。気が付けば、アリスはぽつりと呟いていた。
「………結構強いお酒なのね」
「飲むか?」
「え?むぐっ」
口に出してしまったと焦る前に、ブラッドに再び口づけられる。強い酒がブラッドの唇から流し込まれ、アリスの喉を灼いた。
「……、っ」
「………確かに、程々に強いな」
「………程々、どころじゃないわ」
「そうか?だが、美味しかっただろう」
「…………ええ」
やや考えた後に渋々と頷くと、ブラッドは満足げに笑った。
「流石、貴方が選んだだけあるわね。強度はともかく美味しかったわ」
「それは良かった」
菊花の薫る中、二人はひそやかに微笑み合った。
酒に酔ってしまったのだろうか。アリスはくらくらする頭をちょうど良い高さにあるブラッドの肩に預けた。
「………お嬢さん?」
驚いたように僅かに身じろぎしたブラッドに構わず、アリスは彼の胸元に倒れ込むように寄り掛かった。
「アリス………」
「…………貴方達には、不老長寿の願いなんて関係ないのよね……なら、別のことを頼んでもいいかしら」
「お嬢さんからの頼み事とは、珍しいこともあるものだな」
抱き寄せられ、うなじにキスを落とされる。鳴り響く、生々しい時計の針の音。この人が生きているという、何よりも確固たる証。
あの監獄での出来事を、アリスは忘れた訳ではない。
傷付き、血を流すブラッド。牢屋の奥で、撃たれた姉。

命が余りにも軽く扱われるこの世界で、何より恐ろしいものを彼女は知った。

惑わす道化も、冷たい牢屋も、鉄格子の奥の真実も。


その恐怖には及ばない。


「何でも言ってみなさい」
「………じゃあ」
アリスは身体の向きを変え、ブラッドを真っ直ぐ見上げた。彼の、見る角度によって紺碧にも翡翠にも見える瞳を見上げる。
ブラッドが小さく息を呑む気配がした。
「………居なく、ならないで。私の傍にいて」
「……………」
不老も、長寿も、必要の無いもの。
ならば、ささやかな永遠くらい、望んでも構わないだろうか。
どれ程難しいのかなんて、とうに知っている。けれど、そう願わずにはいられない。
「………独りにしないで」
甘えるように頭を擦り寄せると、暫しの沈黙の後にため息が聞こえた。
頭上を見遣ると、ブラッドが手で口を覆うようにして、あらぬ方向を向いていた。見間違いでなければ、頬も赤い気がする。
「ブラッド……?」
「………全く、君は」
溜め込んでいた息を吐くように言われ、アリスは反射的に身体を強張らせた。そんな彼女を宥めるように口づける、ブラッドの瞳は優しい。
「置いて行ける訳がない。不安になるなら、何処までも道連れにしよう」
「…………ありがとう」
時計の音が響く。頭の中で、今の言葉と共に何度も反復される。
幸せそうに、アリスは目を閉じた。



「さてお嬢さん。行こうか」
「………え?」
目を覚ませば、そこは帽子屋屋敷の主の部屋。
寝かされていたベッドから起き上がったアリスは、にっこりと微笑まれ思わず身を引いた。
不気味だ。正直に言って、不幸の前兆のようだ。
だが、ブラッドはアリスを抱き寄せた。
「結婚式だ」
「………誰と、誰の?」
「勿論、君と私のだ」
「……………は」
茫然としてから、我に返ってブラッドに文句をつらつらと並べる。だがそれら全てをさっくり聞き流し、このとんでもない男はにやりと笑った。
「もう触れは出した。今更何を言っても遅い」
「〜〜〜〜!!」
「言っただろう?道連れだと」
酷薄な内容と裏腹に、抱きしめた腕はとても温かかった。








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