「………っ!?」 街中を歩いているとき、突然起こった眩暈と立ちくらみ。それにともない地形が揺らぎ歪んだような感覚に襲われる。 いや、視界が突然歪んだことが眩暈と立ちくらみを引き起こしたのか。どちらが先か後かは分からない。いや、そもそもそこは大きな問題ではない。 とにかく目の前の何もかもが全て歪んだのだ。 たくさん立ち並ぶ建物も溢れかえっていた周りの人たちも、足をつけていた地面までもぐにゃりとまがったかと思うと、アリスにはどっちが天でどっちが地かも分からなくなった。もはや立っていることなどできるはずもなく、既に感じることもできない重力に引かれ崩れ落ちるように倒れこむ。 地面に伏せたまま次第に朦朧としていく意識。そんな中、彼女の頭の中に浮かんだことはただ一つのこと。 (エース………!!) ☆☆☆ 「…………んん?」 最初に感じたのは頬に触れる冷たく硬いコンクリートの地面。 どれだけの時間が経ったのだろうか、意識を取り戻したアリスはゆっくり薄目を開けた。 「何で私………。それに、えっ?」 まだぼんやりしていた頭が急速に覚醒していく。アリスは見たこともない薄暗い道に自分が倒れていることに気が付いた。 先ほどまでいたのはハートの城の城下町。さっきの時間帯は休みで、散歩がてら城の外に出てきていたのだ。 ウィンドウショッピングをしたり、小物屋さんに入ったり、本屋さんを覗いたり。 本当は無意識に赤いコートを羽織った色々な意味で放っておけない、ここ数十時間帯見かけていない恋人と言ってもいいのか分からない相手を目で探していたのだけど、それは本人にも気づいていないこと。 そんな中突然降りかかった出来事に、今の状態に、頭が真っ白になる。 何が起こっているか何1つ分からないが、だからと言って地面に倒れたままというのはあまりにもおかしい。まずそのことに気付いてアリスは慌てて起き上がった。 裾を払いながら人気のない辺りを見回してみる。見たところ、今いる場所は路地裏のようであった。 突然異変が起こって倒れたのが大通りを歩いていたときだったはずなのに、これはどういうことなのか。 路地の先、遠く離れた道の先は人が横切る様子とまた、喧噪がかすかに聞こえてくる。どういった事情かは全く分からないが自分の知らない路地裏の奥で倒れていたようだ。 (な、なんで?) なんの脈略もない今の状態に混乱する。もしこれで完全に他の人の気配がなかったら、パニック状態になっていただろう。 この道を抜けたら誰かがいるという事実が、ほんの少しだけアリスを落ち着かせる。 (気が付いたらこんなところ、っていうのも悪いのよ) 改めて今一度自分のいる場所を確認してみる。高い塀に囲まれた薄暗い路地裏。 こんな場所では、周りの街並みも真っ赤で派手なお城も何も見えない。開けた場所にさえ出られたら、あの派手な城を目指して歩いていけばいいのに。アリスは某騎士様のように方向音痴ではないのだから、場所さえわかれば一人で帰れる。 いざとなれば、誰かに道を聞いたらいい。きっとすぐ自分の居場所に戻れるだろう。 自分を安心させるためにもそう心の中で呟く。なぜ、こんな奇妙なことが起きているのか、その原因を考え出してしまうとパニックになってしまう予感がして、そのことは頭から一度追い出す。 そして、何故か嫌な胸騒ぎに走りだしたくなっている自分を抑えつけて、明るい大通りに向かって歩いていった。 「………ここはどこなの!?」 嫌な予感ほど外れないものというのは、もう嫌というほど知っている。知ってはいたが、そんなはずないと思っていた。いや、そう思いたかった。 明るい大通りに踏み出したアリスは、そんな自分の淡い期待を裏切る目の前の光景に声を上げる。 その声は無情にも心境と正反対な賑やかな雑踏の中に紛れて、誰にも拾われることはなかった。 いつもの見慣れたきらびやかなウインドウが並ぶハートの城下町とは明らかにかけ離れた街並み。その上、帽子屋屋敷領でも、クローバーの塔でもない。当然森でもない。 今までみたこともない、だけど活気あふれた、ここは市場であろうか。この世界に来てから一度も、いや元の世界に住んでいたときでさえ見たことのない場所だ。 地形が歪み狂ったこと。それと今自分が見たこともない場所にいることを考えれば、何がおこったのかは明白だ。そもそも突然わけも分からない場所で倒れていた時点で、アリスが考えられる中で最悪のその答えが、一度も頭を過ぎらなかったといえば嘘になる。 だが、その答えを。その単語を頭に思い浮かべるには、アリスはまだ現実を受け入れたくなかった。 通りかかる人に聞けばここがどこの領土の市場であるかはすぐにわかるであろう。 でも、聞いてしまったら今思っている答えが、ただの思い過ごしかそうでないかがはっきりとしてしまう。聞き覚えのない領土名を告げられてしまったときに平静を保てる自信などどこにも持ち合わせていない。 どこに向かえばいいかも分からないまま、アリスはへたり込みそうになる足に鞭打って歩き出した。 「っ!!!」 ある程度辺りを歩きまわったところで、初めて自分が見知った建物を視界にとらえた。思わず足が止まる。瞬きしてもその建物はなくなったりしない。 自分の空想ではなく本当にここに存在しているものだと分かるともう我慢できず、アリスはその建物に向かって走り出した。 ☆☆☆ 「………メア、ナイトメア!!!」 見つけたのは、何度も会合でお世話になったクローバーの塔。ナイトメアが住む建物だ。 ナイトメアならきっと説明してくれる。これが悪い夢なら、目を覚ましてくれるだろう。 そんな期待に、息を荒げながら必死で塔の中を駆け抜ける。塔の人たちが驚いて立ち止まる横も駆け抜ける。いくつもある階段を駆け上がり心臓がバクバクと悲鳴を上げるが、大きくて豪勢な扉までスピードが自然と落ちながらも駆け抜けていった。 バタンッ! 「アリスっ!!」 「っはぁはぁ……、ナイト…メア、教えてっっごほっ!!」 (今の状況って……) 扉をノックもなしに走る勢いのまま力いっぱい押し開ける。思い切り開いたドアが壁に当たって酷い音を立てたがそんなことは気に留める余裕もなかった。 口の中に血の味が広がる。息をするのも必死な中声を出そうとするがうまく言葉にならない。いや頭の中が、肝心な言葉を出そうとしない。 「な、アリス!?」 気が付かなかったが、同じく部屋にいたらしいグレイが驚きの声をあげた。そして…… 「………まさか、君が弾かれるなんて」 (……そんな) 続きて呟かれた言葉に、アリスは今度こそ足の力が抜けてへたり込んでしまう。 “弾かれる”、この単語が意味することはたった一つ。 「やっぱりこれは、引っ越しなの……?」 一時の間何度も耳にした言葉。もうこんなことはないと思っていたのに、またしても強制的な別れがきたというのか。理不尽で何の遠慮もない、ルールという無茶苦茶な理由で起きる引っ越しという名の別れが。 もう何も変化など望んでいないというのに。変わらない日常をと望むのは、そんなにも突拍子もない願いだというのか。 前回はユリウスとゴーランドがいなくなってしまった引っ越し。 今のこれが引っ越しというのならば…… (今回いなくなってしまったのは一体誰??) 引越しには別れが付き纏う。新しい出会いもあるが、それは誰かが居なくなったという事実の上にしか成り立たない。何も失わずにただ好きなものだけ得ることは、夢のような一面を持ちつつ同時に果てしなく残酷なこの世界ではほとんどない。 先ほど見た市場を思い出す。これまで見たことのないあの土地は、新しい領土であろう、あの領土が増えたということはどこかの領土が消えてしまっている可能性が高い。 (たしかもっと上の階に行けば全体を見渡せる展望台があったはず……) 立つこと拒否する足に力を込めて立ち上がる。よたつきながらも自分で開け放ってそのままになってるドアから外に出る。 そこからの景色を見たら、この土地がどうなっているのか理解できるに違いないという気持ちに急きたてられるように再び駆け出した。 「アリスまっ………」 「グレイ待て、実際に見てもらう方が早い」 「でも、今回の引越しは……」 「ああ、分かっている。でも今我々が何を言っても彼女は自分の目で見ないと納得しないよ。いや、見たところで納得なんてしないと思うが」 「そうはいっても」 「それにな、彼女はもう一度戻ってくるよ。どうしても聞かなくてはいけないことがあるはずだからな」 そんな背後で行われていた会話など耳にも入っていなかった。 ☆☆☆ 「これって…………」 ようやくたどり着いた展望台、そこからの景色はアリスが言葉をなくすのに十分な代物だった。 見えたのは帽子屋屋敷とさっきの市場があったであろう初めてみる大きな建物。そして、クローバーの国にいた時にはあんなに恋しかった時計塔。 『まさか君が弾かれるなんて』 先ほどのグレイの声が蘇る。 (私が"弾かれた"………つまり私の住んでいた城は) 今回の引越しでなくなってしまったということだ。 がくりと膝をつく。 自分の居場所がなくなってしまった喪失感。前回は一緒に移って来れて自分は城の一員だと安心できたのに、それを見事に覆されてしまった。 お前は城の一員なんかではないと突きつけられたように感じる。 城がなくなってしまったということは、もう会えなくなってしまったのだろうか。ビバルディにもペーターにも、エースにも……… (エース?) そうだ、エースはどうなったのだろうか。 時計塔はここにある。この国に自分と一緒に弾かれたのならば、前のように荒れる心配もないはずだ。 もし一緒に住む場所がなくなってしまったと言うのなら時計塔に突撃してしまったらいい。ユリウスは文句を言うだろうしすごく狭い暮らしになるだろうが、絶対に楽しい。 ただ、もしエースが前回同様にハートの城と引越しをしてしまったのならば……… (きっと私に裏切られたように思うでしょうね) 同じ迷子仲間として、一緒になったというのに。彼のためなら彼に殺されてもいいとまで思ったそのことに何一つ嘘はないのに、自分だけ弾かれてしまったら。 自惚れではないと思う。 一緒に弾かれたという仮定はとても幸せで、現実を知らないまま浸っていたい。 しかし、 (分かってる、現実ってきっとそんなに甘いはずがないわ) 彼の役名は『ハートの騎士』ユリウスの仕事を手伝っていたとしても本職はハートの城に携わる者。いくらユリウスの手伝いをしていて、本人が離職したがっていたとしても肩書は変えられない。 クローバーの国への引越しでは自分は弾かれたようのことを言っていたが、そのことの方が当たり前のはずなのだ。 (ナイトメアに会わないと) アリスはもう一度執務室へと階段を降っていった。 ☆☆☆ 「ナイトメア!!」 「聞きたいことがあるんだろう」 ナイトメアは自身の机に肘をついて指を組んだ状態で待っていた。追いかけなくても、ここに来ることは分かっていたのだろう。 その上何を知りたいかも気づいているようだ。 「ねえ、この国にエースは………」 (いる?一緒に弾かれていない?) いてほしい。あの人を一人にしたくない。 そんな質問の後に続くアリスの心の声も届いているのだろう。 ナイトメアは静かにアリスを見つめたまま。少し悲しそうな目で。 「残念ながら、君の想像通りだ。この国にハートの騎士はいない。城の役持ちは全員城と共に引越したよ」 と、そう告げた。 「……………っ!」 エースはユリウスもアリスもいない新しい国に一人ぼっちになってしまったのだ。 一緒についていてあげられなかった。 (ごめんなさい) 寂しいと言えない人。自分は強いと思っているから誰にも甘えられない人。そもそも寂しがっていることにすら気が付けない不器用な人を、また一人にしてしまった。アリスが一人にしてしまった。 二人がバラバラになるのは、エースの手によってなると思っていた。こんなことは想定外だ。いつか一人にしてしまうとしても、こんな別れは想像だにしていなかった。 どうしているだろうか。きっとまた荒れているに違いない。会いたい。すぐにでも会って触れたい。 (……………あっ) 「ナイトメア、あなた夢でできないことはないって言っていっていたわよね」 「あぁ、夢魔だからな」 「なら、私とエースの夢を繋ぐことだってできるわよね?」 「できるが、それは………」 「お願い、できるならやってちょうだい」 会ったところで何もしてあげられない。何かが大きく変わることもない。 所詮はただの夢だ。幻の出来事。 そんなこと分かっている。 「いいんだな、分かっていてそれでも会いたいと」 それでも、会いたい。どうしても。 自分がいなくなったエースがどうなっているのかを見たいという気持ちがないわけではない。でもこれはそんな簡単な気持ちではないはずだ。 (何もできなくても、このままでいるなんて私にはできない) 「ええ、お願いするわ」 「……ナイトメア様!!」 「大丈夫だ。夢は私の領域。それに彼女は余所者だ。他の国同士の役持ちならまだしも、余所者を別の国の人物に合わせるぐらいルール違反にはならない」 咎めるような声のグレイを一瞥して、ナイトメアは自身の椅子から立ち上がって移動した。 近くにあったソファーの前で立ち止まる。 「さあ、ここに座りなさい」 指示されるがままアリスはソファに腰掛けた。背にもたれることもせず、硬い表情のアリスの頭の上にナイトメアは手をのせる。ひんやりした手に触れられアリスは軽く身震いした。 「いつもの場所にきたら私が分かりやすく道を作る。君はその道をたどっていけばいい」 目的の人物はその先にいるはずだ。 ただ手をのせられているだけというのに、意識が落ちていくのが分かる。 ナイトメアの言葉を聞きながらアリスの意識は何かの力に押されるように深いところに落ちて行った。 ☆☆☆ 気が付けば、いつもの灰色の空間。地面もないのに立っているのもいつものこと。 見回してみるが、ナイトメアの姿はない。だが、いつもと違い、前方に光り輝く場所があった。 (あれがナイトメアの言っていた道を作るってやつかしら) あの方向に進んでいけばきっと会える。そう感じたアリスは急いでその光のもとまで行き、思い切り光に飛び込んだ。 感じたことのない浮遊感。これが夢をわたるということなのだろう、知識のないアリスには断定はできないがそう確信する。 (飛ばされている) 背もたれのないジェットコースターのようだ。 気持ち悪くはないが少し不安な気持ちになる。心だけ遠くに飛ばされているような、もう元の場所に戻れないのではないかと錯覚してしまう感覚。だが、その時間もそんなに長くは続かなかった。 終わりは突然で、浮遊感がなくなったことに気が付いたときには、また立っていた。 だが、先ほどまでいたいつもの見慣れた灰色の空間ではない。きっとここはもうエースの夢の中なのだろう。 足元は芝生。アリスが立っている場所は何度もエースと迷子になった、アリスにとっても馴染み深いクローバーの森だった。 「ここがエースの夢?」 夢の中でも迷子になっているのだろうか。 夢にいけばすぐに会えるかと思っていたが、おもわぬ誤算だった。 夢は寝ているときだけ見れるもの。きっとこの時間は有限のものだ。せっかく繋げてもらったのだから、何としてでも本人に合わなくてはならない。 そんな焦燥感が、アリスの足をまた駆け出させる。 でも、本物の森で探しているわけではない。所詮人が作った夢の世界。 夢の森は、クローバーの国の森のように広大ではなかった。緑あふれる森の中で、あの真っ赤なコートはすぐに見つかった。 あと数歩踏み出せば崖。そんな場所で立ち止まっている。 こちらからは後ろ姿で、表情は見えない。今どんな表情をしているか、想像もできない。 アリスはその後ろ姿に抱き付くことはできなかった。声をかけることもできなかった。 ただ駆けていた足を緩めて、ゆっくりエースに歩み寄っていく。こちらに気付いていないのか、エースはピクリとも動かない。 アリスは腕を持ち上げてエースの肩を触れようとした。 「っ!!」 それは一瞬のこと。 次の瞬間にはエースの大きな剣の刃が、自分の首に当たる寸前で止まっていた。何の前触れもなしの出来事。 ただ、風切声が聞こえて、強い風が吹き付けて一瞬目を閉じただけ。目を開けると手はエースに届くことなく、一瞬でも遅れていれば頸動脈をすっぱり切っていたであろう剣が突きつけられていた。 アリスは魔法にかかったかのように悲鳴を上げることもなく固まった。突然殺されかけたことに驚いたが、それだけが理由ではない。 「なんでだろう……」 かなりの時間同じときを過ごしてきたアリスですらほとんど見たことのない、無表情なエースの顔。起きているかぎり常に張り付かせている笑顔が剥がれおちたかのような、何もない表情。 剣を突き付けている目の前のアリスにも焦点が合っていない。 (夢とはいえ)命をなくしかけたショックなんかより、そんなエースにアリスは何も言葉が出せなくなる。 「夢に見るまで執着しているなんて気持ちが悪い。そんなもの、排除しないといけないのに。………何で君は無傷で立っているんだ」 そこでようやく、エースがアリスを見た。 ただただ不思議そうな表情を浮かべている。 「現実の世界でも君のことを殺したいと思っていたのに、いなくなって。夢にでてきたのなら、何も思うことなく殺せただろうに。どうして君は生きているんだ?」 (それはあなたが止めたからよ) アリスが特別な力でとめたかのようにエースは話すが、アリスは剣で今にも首を落とされそうになったことに、剣を突き付けられた後にしか分からなかったのだ。 あのまま振り切られていれば、アリスの細首など落ちていいたかもしれない。無事なのはただエースが途中で止めたからだ。 「親友がいなくなって、新しくできた恋人までいなくなって。その挙句彼女の夢を見るなんて、なんて情けない男なんだ。騎士失格だな。………失格させてくれればいいのに、ははは」 そこでエースは笑った。いつものような爽やかさはあまりなく、自嘲気味に。でもすぐにまた無表情にもどる。 「結局君もいなくなってしまった」 アリスに冷たい剣の先が当たる。チリチリとするけれど首が傷つけられるほどには押し付けられない。 アリスにはエースが今までの中で一番弱っているように感じた。殺したいのに殺せない。いつもなら絶対に殺していたはずなのに、殺すこともできなかった。 手首を捻って今度は剣腹で首筋を撫でられる。ここにいる自分を確かめられているように感じた。素手ではなく剣でというのが、エースらしいが同時にエースらしくない。いつものエースならば今アリスが無傷で立てているはずがない。 この状態からさらにアリスが近づいたら、もしかしたら手首を返してこのまま首を切るかもしれない。しかしそれでも、向こうが動かないと動けないなんていつものエースならありえない。 (エース…………) 「あれ、何で泣くんだ。あ、怖いから?でも俺に剣を突きつけられたからって怯えるような君じゃないと思っていたんだけどなー」 声もなく涙を流し出したアリスにそんな声を上げるエース。 アリスはもちろん恐怖で涙を流しているわけではない。悲しいから、切ないから。 (こんなにも迷子にさせてしまっただなんて) こんなに近いのに遠い。どう声をかければいいのか分からなくて、ただ涙を流すことしかできない。 殺せないほど執着されてくれている喜びより、殺せないなんてエースらしくないことをさせてしまっていることに悲しくなる。こんな状態のこの人を、このまま置き去りにするしかない自分自身が辛い。 今ここにいる自分が、エースが作り上げた夢の産物ではなく本物であると告げたところで、どうなるというのだろう。 だから何も言えない、何もできない。 切り捨ててくれたらよかった。切り捨ててくれば、遅かれ早かれ一人にしてしまっていたのだと納得できたかもしれない。 でも、殺せないと素の顔で言われてしまったら。そんなにも自分がこの人にとって大きな存在になってしまっていたのだと分かってしまったら。 (このまま一人にしておくわけにいかないじゃないの) アリスはそろそろと手をのばし剣に触れた。いつの間にか頬に移動していた剣に手を添える。 手を握りこむかのように、冷たい刀身に。 『すぐ会いに行くわ』 「何?」 『だから少しだけ待っていて頂戴』 目を閉じてそう、口だけ動かした。声を出したわけではないのだからエースには何と言ったのか分からなかっただろう。 分からなかったら分からなかったで構わない。今この場にアリスの声は必要ない。 タイムリミットが来たのだろう。さっきとは逆に身体が引き戻されるような感覚が襲ってくる。ここでお別れだ。 アリスの目の前のエースや周りの景気がぼやけていく。おそらくエースの夢からアリスが消えようとしているのだ。 「アリスっ!!」 (そんな風に呼ばないで) 消えるというときにここに来て初めて名前を呼ばれる。 こんな切羽詰ったように名前を呼ばれたことなんて一度もない。そんなことされたら、困ってしまう。 強く握ればこちらの手が真っ赤に染まってしまう、彼が持つ剣と同じで近づきすぎると傷付くだけだと分かっているのに……。 手に触れていた剣の感覚がなくなった。 ☆☆☆ パチリと気が付いたときには、灰色の空間ではなく現実世界。 こっちの世界の自分も涙を流していたようで、目頭が熱い。鼻の奥がグズグズする。 「ナイトメア……」 「………無理して何も言わなくてもいい」 このソファーに座ってどれぐらいの時間が経ったのかはアリスには分からない。しかしその間ナイトメアは近くにずっといてくれたようだ。 そっと胸元に入れていたハンカチをアリスに差し出してくれた。 「貸してあげよう」 「…………ありがとう」 (こんなときはかっこよく見えるんだから) いつものダメダメっぷりはどこへやら。頼りがいのある紳士のようではないか。 「紳士のよう、ではなく私は紳士だ」 「すぐ他人の心を覗く辺り紳士と言えるわけがないでしょう」 恥ずかしさもあって憎まれ口が飛び出す。人前で泣くなんて、母の葬式以来ではなかろうか。 眠ってる間なんて不可抗力だけれど、恥ずかしいものは恥ずかしい。 「…………大丈夫だ。今の君なら惑わされることはない。心は決まっているんだろう?」 (本当に何もかもお見通しなんだから) 「ええ。…………このハンカチは今度会えたときにで、いいかしら」 「もちろん。これが永遠の別れになるわけになるわけではないのだからね」 「ちゃんと大切に持っておくわ……………ありがとう」 ハンカチを大切に手に持ったまま立ち上がる。 すぐに会いに行くと伝えたのだ。ここに長居はできない。 「ごめんなさい、お騒がせしてしまって。ナイトメアありがとう。グレイも、ナイトメアを借りちゃってごめんなさい」 「え、いや俺は別に……」 「また会えたときにお礼させてちょうだい」 グレイは心配そうにオロオロしているが、逆にアリスはこれ以上なく落ち着いている。 自分のせいで動揺させてしまっているという自覚はあるが、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。 心が決まったからだろうか。迷惑をかけてしまった二人にお詫びをしたいが、それよりも早く行かないとという焦燥感に追い立てられる。 「2人ともありがとう。次まで絶対に元気でいてね」 グレイはまだ動揺していてロクな反応がないが、アリスの考えていることの分かるナイトメアは大きくうなづいた。 「ああ。君も元気でいるんだぞ。また夢を通して様子を見に行くから安心してくれていい」 「それを出汁に仕事をサボっちゃダメよ。グレイに迷惑はかけないようにね」 「分かってる分かってる。さあ、行っておいで」 「ええ。ありがとう」 アリスは二人に大きくお辞儀をして、部屋をとびだした。 ☆☆☆ 急ぐ気持ちのため小走りで辿りついた先は、クローバーの塔にあるドアの部屋。 ここはアリスにとって恐ろしさを感じる部屋。自主的にこの部屋に来たのは初めてのことだ。今まで何度も来たことはあるが、それは気が付いたらこの場所に来ていただけでアリスの意思ではない。正直言ってこの場所には気味悪さしか持っていなかった。 ただ、今思い出すのはここで1人でウジウジしていたことではなく、ここで何度か出会った彼のこと。何度も何度もここで鉢合わせした。 初めて見た彼の素の表情と愛しているの言葉を思い出したら堪えようもなく切なくなる。 今まで必ず聞こえていた、自分に呼びかけるドアの声は聞こえない。それにこれまでのことが嘘みたいに、驚くほど扉に脅威を感じない。 辺りを大きく見回したときに1つの扉にアリスは目が止まった。 少し高い位置にある赤い、アリスよりやや大きい扉。理由は分からないが。この扉が繋いでくれると、自分が行きたい場所へ続いているのはこれだという絶対の自信が沸く。 階段を登り、その扉の前に立って手を伸ばす。あれほど怖い怖いと思っていた扉は何の障害もなく、驚くほどすんなりと開いた。 踏みしめる草の感覚が懐かしい。 後ろ手にくぐり抜けた扉を未練なく閉じる。おそらくもうあの国には戻れないだろう。名前も知らないままの国であったが、きっともう二度とあの国に行くことはないのだから何も支障はないだろう。 人がいなくとも生命にあふれた場所。本物の場所は夢の世界より、もっともっと生きている感じがする。 そんな中、目の前に立つ真っ赤な人。緑と茶色で溢れた場所にどぎつい赤なんて合わないはずなのに、もうそこにいるのが当然のように感じてしまうのはどうしてなのか。それだけ慣らされたということだろうか。 ポカンと驚いた顔でじっと見られてアリスはニッコリと微笑む。泣きそうだったが、この人の不意を初めてつけたと思うと少し嬉しくて涙は引っ込んでしまった。 自分の行動は間違っていなかったとそう思える。 そして、今度こそ目の前の彼の元へ走りこんで抱きついた。 「アリス…………?」 ぼそりとささやき声が落ちる。信じられないという声音。 エースは抱き返すこともなく突っ立ったままだ。アリスは腰に回した腕に全力を込める。 エースにここにいる自分は本物であると分かってもらうために。 「そうよ。………一人にしちゃってごめんなさい」 声が少し震える。ここにきて、さっき引っ込んだはずの涙があふれだした。 分厚いコートは体温を伝えてくれないが、この見た目のわりにがっしりとした身体は間違いなくエースのものだ。それを感じて自然と涙が溢れ出した。 「………まさか本物?俺の妄想じゃないよな」 「妄想なら感触なんてないでしょう。それとも何も感じないかしら」 より一層力を込めて抱きつく。抱擁というより格闘技のような力の入り用だが、エースにとっては大した威力もないだろう。 そのままぎゅーぎゅーとしていたら、そっと頭の上に手を置かれた。 「本物……だよな」 「うん」 ポンポンと頭を触られる。 アリスは抱きつく力を弱めるが、顔は胸元に預けたままだ。どんな顔をしたらいいか分からないから。 「向こうには………」 「ん、何?」 「こっちじゃない国」 エースの声のトーンがいつもと違う。かすれるような、さきほどの茫然といた声もそうだが一度も聞いたことのない声音。 表情が気になって顔を上げようとしたけれど、頭に置かれた手が邪魔をして上げられない。 顔を見られたくないのだろうか。そんな子供っぽいことも初めてではないだろうか。 「あっちにはユリウスがいたんだろう。どうだった?」 「………会っていないわ。すぐこっちに来ちゃったから」 「せっかく久々に会えるチャンスだったのに?」 「ええ」 ユリウスがいる、とは思ったが会いに行こうとはならなかった。それよりなによりエースがいないかもしれないという事実にしか目をむけられなかった。 でもたとえユリウスがすぐ近くにいてもアリスが一人で先に会うなんてことはしなかっただろう。会うのならば3人か、エースとユリウスの2人がいい。 「はぁ、君ってたまにすごい抜けてるよなぁ……」 「ええ、ほんとにね」 エースの指していることとはたぶん違うそろうが、同意する。 こんなに自分にとってエースが重要な存在になっているだなんて、今の今まで気づかなかった。 今の自分たちの様子をユリウスが見たら、どんな反応をするのだろうか。呆れつつも認めてくれるだろうか。 認めてもらいたい。 「あなたなら……」 「ん?」 「………いいえ、なんでもないわ」 (あなたなら、真っ先にユリウスに会いに行った?それとも私を探してくれた?、なんて愚問よね) 聞くまでもない。ユリウスがいるなら、自分の立場なんてない。 「それより、また迷子になっていたの?引っ越し後って地形が揺らぎやすいんでしょ」 「迷子じゃないぜ。旅の途中だよ」 「あ、そっか。新しい土地になったんだから、探索かしら」 「いや、君が迷子になっていないか探していたんだよ」 「………え?」 「知らない場所で一人だったら、怖いだろう。騎士なら助けてあげないと、と思って」 返す言葉に詰まってしまう。 「そんな……。私がもともとこの国に、いなかったことは知っていたんじゃないの?」 (だって夢でも私がいなくなったって) 「ペーターさんが気色が悪いほどに取り乱していたからね。いなくなったって思っていたけど、でもほかにすることもなくて。まさか本当に現れるとは思っていなかったけどな、ははは」 何も言葉を返せない。 もしかしたら冗談なのかもしれない。いや、きっとそうだろう。こんな感じの戯言で自分をからかうことが好きだもの。きっと本当はただのいつも通りの旅に違いない。 それでも、そう思っていても私の鼓動を早めるには十分すぎる。 「嘘だと、思ってる?」 「……だ、だって」 「本気でいるとは思ってなかったさ。でも、何もせずにはいられなかった」 「………」 「これが、寂しいっていうのかな。気が付いたらここにいたんだよ」 アリスに乗っていた手がどけられる。 顔を上げるととても久々に感じるエースの笑顔。そっと後ろを振り返ってみると。 「……ここ、ドアの森?」 目の間前に広がっていたのは、自分が抜けてきたドア以外にも大量のドア。自分がクローバーの塔からここに来た場所の森バージョンだ。 「そう。この場所好きじゃないんだけどなぁ」 「同感ね」 「でも今だけはそんなこと言えないなー。まさか、なぜか一番目が離せなかった扉から君が出てきたんだから。ほんとビックリしたぜ」 「えっ?」 その言葉に、私の方が驚いているわよ、と返したいのに声が出せない。 エースも自分に繋がる扉を開けたいと思ってくれていたのだろうか。そう思うだけで、言葉にできない感情でいっぱいになる。 この言葉は冗談ではなければいいと、本気で願った。 少しの間沈黙が続く。普段ならまず吹くことがない強い風が、アリスの髪を大きくなびかせた。エースのコートも翻る。引っ越し後は地形だけでなく、風も荒れるのは今回も同じようだ。木々が風に揺れる。 いつもと違い大きく騒めく森の中こうして抱き合っていたら、この世界に自分たちしかいないような錯覚に陥る。 でも、違う。さっきまでと違い、今のアリスには帰る場所がちゃんとある。 「私……」 「ん?」 「私、まだお城がどこにあるか知らないわ」 「それはそうだろうね。今来たばっかりだし」 「だから、あなたに連れて行ってもらわないと。………案内、してくれるわよね?」 エースに道案内を頼むときが来るなんて。 きっとこれから壮大な旅が始まるに違いない。今まででもそうだったのだ、今更すんなりたどり着けるとは思っていない。崖から落ちたり滝に落ちたり、動物に追いかけられたり、運が悪いと豪語する彼と一緒の森は何が起きるか分からない。 それなのに頬が緩んでしまうあたり、自分も落ちてしまったなと思う。そこまで悪い気はしないけれど。 「ああ、もちろん。君を素晴らしい旅に連れて行ってあげよう」 見上げたら、雨上りの澄んだ青空のような笑顔が広がっていた。 いつもの裏側を覆い隠すような明るすぎる笑顔でもなく、また変に雲が流れたような笑顔でもない。愛おしいと言わんばかりな表情に、赤い瞳も穏やかに凪いでいて、そこに映る自分の目が大きく見開かれているのが見えた。 案内は旅とは別でしょう、という言葉は迫ってきた唇のせいで出せなかったけれど久々に触れる熱にそんなことは些細なことで。 きっとこの胸の温かさが自分の求めていたものなのだろうと、この温かさをこの人も感じてくれていたらいいと思いながら、アリスは静かに目を閉じた。 NOVELに戻る |