アリスが帽子屋屋敷の廊下を歩いていたときに、自分が進もうとしている先の廊下の曲がり角から赤い小さなものがコロコロ転がってくるのが見えた。
「ん?これは……リンゴよね」 そのまま歩いて近寄ってみると、転がってきたものの正体はリンゴであるのが分かった。でもなぜリンゴが転がっていたのか。 アリスは落ちているリンゴを拾い上げて、転がってきた先に視線を動かした。 「うわぁ!これはすごいわねー」 「あら〜、お嬢様〜」 アリスが見た先には、これほどかと言わんばかりに箱詰めされたリンゴが積み重なっていた。 見たところ使用人とメイドが数人係で箱を運ぼうとしていたが、どうやらバランスを崩して少しばら撒いてしまったらしい。口の開いた一つ大きな箱が床に置いている。 使用人とメイドが赤くよく熟したリンゴを運んで箱にもどしている最中だった。 アリスの感嘆の声に近くにいたメイドが声をかけられた。 「はい、こっちにもリンゴが転がっていたみたいよ」 「申し訳ありません〜。拾っていただいてありがとうございます」 「いいえ。それよりもこのリンゴの山はどうしたの?」 「ああ〜、なんでもたくさんのリンゴが収穫できたからと、いただいたんですよ〜。ただ、それがなぜか数件重なって、こんなにもリンゴが大量に」 どっさりと詰まれた箱を見て苦笑いを浮かべている。 確かによく見てみたら、箱のパッケージは何種類もある。実りの秋というが、とんでもなく豊作であったようだ。 差し入れは嬉しいが、それも度が過ぎると少々対応に困ってしまうだろう。 「なかなかこれだけのリンゴを使おうと思ったらこれから大変ね。って、んん?」 私も手伝わせてもらうわと、アリスが箱運びに加わろうとしたところで、視線というか、目の端で何かが動くのに気が付いた。 その方向へ視線を向けてみると。 「あ、あの子たち!」 赤と青の色違いでそっくりの服を着た少年が二人、リンゴの山に指をさしながら何やらこそこそと会話をしている様子が見えた。少年というのは言うまでもなくディーとダムだ。 門番の二人が屋敷内にいるということは、休みかサボりか……。 (あの二人のことだから、サボりの可能性の方が高そうね) アリスがこっそり様子をうかがっていると、二人はニヤッと笑みを浮かべたかと思うとさっと立ち去って行ってしまった。 ………悪い予感しかしない。 (大量の柿で遊ばれたのも記憶に新しいし、絶対ろくな話をしてなかったに違いないわ) 以前柿がたくさん取れたからとたくさん持ってきたはいいが、それで遊ばれて大変なことになった。あんなに投げつけて。 (柿は潰れてくれたけど、リンゴは硬いし……。何するつもりかは分からないけれどもしあんなことされたら前より被害がでそうだわ) リンゴは80kgほどの握力をかけないと潰れないほど硬いのだ。そんなものを前みたいに人に向かって投げられたら、当たり所によっては大変なことにもなる。投げなくてもきっと悪巧みに使われたら周りは大変なことになるだろう。そんな事態になる前に何か手を打たないと…… 「ねぇ、このリンゴの使い道ってもう決まっているのかしら?」 「いいえ〜。ただ外に置いておくのも邪魔なので〜一度全て屋敷の中に入れておこうかと〜」 「そう。それならこのリンゴで何かイベントをやったとしても大きな支障はないというわけね」 「え?ええ〜、たぶんですけど〜」 置いておいたら悪戯に使われてしまうというならば、その前に使ってしまえばいいのだ。 思い出してみたら、今は秋。それならば、リンゴを使ったぴったりのイベントもある。 まだこのイベントはこの屋敷でもやったことないはずだし。 「私ちょっとブラッドに話をつけてくるわ」 「あ、お嬢様〜」 そう告げて声をかけるメイドさんの前からアリスは小走りに立ち去った。 ☆☆☆ コンコン 「入りなさい」 ブラッドの部屋前まで来たアリスはドアをノックした。ブラッドは部屋にいたようで、中から声がかかる。 アリスはすでに開け慣れたドアを開ける。 「こんにちは、ブラッド」 「やあアリス」 いつも通り静かな部屋。本の独特の香りと薄い紅茶の香り、それとどことなく薫る薔薇の匂い。窓から差し込む日の明かりが温かさを生み出している。 カサっという紙の音がしたかと思うと、珍しく書類仕事をしていたらしいブラッドが顔を上げた。その顔には少しばかり不思議そうな表情が浮かんでいるような気がする。 「どうした?本は少し前の時間に借りたばかりだろう。君でもあれだけの量を一気に読むとは思わないし、特に約束もしていなかったと思うが」 「ちょっとね、お願いがあって」 「君が私に…?お願い、だと?」 一瞬驚きの表情を浮かべたブラッドだったが、すぐにいつもの憎ったらしい笑みを浮かべた。擬音語をつけるとしたら、にんまりだろうか。 「ふむ、君が私に直接おねだりにくるとは……。一体なんだろうな、よく聞かせてもらいたいものだ」 席を立ってわざわざアリスのすぐそばまでやってきた。さらりと腰に手をまわして身体を密着させられる。 あまりに滑らかすぎる動きにぴったりとくっつかれるまでアリスは動くこともできなかった。 「なっ!?ちょっ…!?」 「どんな可愛いことを私に言ってくれるのか楽しみだな」 「なにを…というか仕事していたなら仕事しなさいよ」 慌てて手を置いて押し離そうとするがビクとも動かない。後ろから抱き留められるかのようにくっつかれてしまえば、アリスが身体を離すのはかなり難しい。 変に抵抗してもこの男を煽らせるだけかと思って、無意味な抵抗をやめる。軽くため息をついてからアリスは口を開いた。 「リンゴがたくさん届いたということはもちろん知っているのよね」 「リンゴ?ああ、リンゴの貢物が大量に届いたというのは報告を受けているが」 「そのリンゴを使ってイベントをしても構わないかしら?」 「んん?別に止めたりはしないが…。なんだか突然じゃないか」 「いや、あのまま置いているのがとてつもなく危険な気がして……」 「ふうん?」 抵抗をやめたのをいいことに、ブラッドは遠慮なくアリスに触れてくる。髪を手で梳いて、滑らかなアリスの髪で遊ぶ。 頭皮を軽く引っ張られる刺激が気持ちよくて、なされるがままだ。 「だが、アップルボビングなんて、なかなか難しいと思うぞ」 ちゅっと頭の上にキスを落とされた。 「え、何する気か分かったの!?」 「それは、まあ秋でリンゴをつかったイベントと言えばそれぐらいしかないだろう」 「うっ……。言われてみたらそうかしら」 「ああ、そうだ」 気だるげに話ながら唇が頭のてっぺんから徐々に下に降りてくる。髪をかき分けられて、唇が首筋に触れたときには軽く背筋から身震いが起きた。 アップルボビングはハロウィンの伝統的な遊びの名称だ。水を張った大きな桶などにリンゴを浮かべ、それを手は使わず口だけで取るといったもの。 いかに早く取れるか競争したり、数を競ったりといった競争をすることが多い。 子供のころそれで桶に思い切り顔を突っ込んで、髪の毛をビシャビシャにして姉さんに笑われたことは、まだ記憶に残っている。 くすぐったくて軽く身をよじって距離を取ろうとするが、相変わらず抱き留められたまま。 「口だけでリンゴを取るなんて馬鹿げているし、あれだけのリンゴを使おうと思ったらどれだけ時間がかかることか…」 「で、でもね、早く使ってしまわないと柿の再来が来るかもしれないと思って」 「柿の再来って。……ああ、なるほど門番たちか」 全てを口に出さずともブラッドはだいたいのところを察したようだ。いつも通り恐ろしいぐらいに察しがいい。 「放っておいたらあの子たちが何をしでかすか分からないんですもの」 言い訳のように言ってしまったが、少し恥ずかしい気持ちが残る。少し焦ってしまっていたのだろう。ブラッドに言われてだいぶ落ち着いた。 正直改めて考えてみるとアップルボビングをこの屋敷の中でやるのはかなり難しいというブラッドの言葉は的を射ている。自主的に参加してくれる人もあんまりいないだろうし、参加者が少なければリンゴは減らない。そもそも子供たちがメインにやるイベントである。 この屋敷の役持ちは(子供もいるけれど)まず参加しないだろう。浮かばせるものがニンジンならば一人は食いついてくれるかもしれないけれど。 (あるいは、戦い式にして特別な優勝賞品をつけるぐらいしか手はないわね) ………その場合の優勝賞品は30時間帯の食事メニュー決定権とかだろう。 この自分で遊んでいる男もふざけた遊びと称したアップルボビングに参加してくれるのなら、それだけでとても楽しいイベントになるだろう。挑戦する姿は想像もつかないけれど。 「何か失礼なことを考えていないか、アリス?」 下を向いて小刻みに揺れるアリスに気だるげな声がかかる。 「ふふふ、いいえ何もないわよ」 そんな変わったブラッド見られるのならばそれだけでもする価値は十分にあるのではないかと思うけれど、どうせ何をどうしたところで参加はしないだろう。 やりたいことをやって、やりたくないことはやらない。それが口癖の男なのだから。 「それじゃあ、他の領地のひとたちにおすそ分けに行こうかしら。あれだけの量、どうせみんな使いきれないでしょう?」 ここで消費できないのならば他に持っていってしまえばいい。秋の味覚を他の季節の人に楽しんでもらうのもいいだろう。 そう思い絡みついている腕を今度こそ引き離そうとするが、逆にきつく抱き留められてしまう。 「もう。そろそろ離れてちょうだい」 「ウチの屋敷に届いた貢物を他領土の奴に渡しに行くのは許可できないよ」 「え!?あれだけあるのに。何そんな女々しいこと言ってるのよ」 「ダメと言ったら、ダメだ」 耳元近くで言われ、ゾクリとする。おそらくわざとだろう。 自分の影響力が分かっていての行動だからたちが悪い。 「この屋敷のものは全て私のものだよ。物も、当然人だって」 「いやそれは分かっているけれど。でもちょっとぐらい……」 「何が悲しくて君を他領土の奴らの元へ行かせないといけないんだ。分かるだろう?」 (分かるだろうってなにが) そんな意味深に言われても困ってしまう。 「それにな。…たぶんもう手遅れだと思うぞ」 「えっ、それってどういう」 意味?、と言葉をつづける前に大きな何かが壊れる音が聞こえてきた。それと同時に遠くの方から銃声も聞こえてくる。 耳をすませば怒鳴り声らしきものも聞こえてくる気がするが、その言葉が分かるほどには鮮明には聞こえない。 「これってもしかしなくとも…」 「エリオットと門番たちだろうな」 「うわぁ……」 (間に合わなかったか……) 子供たちの行動はアリスの想像以上に早かったようだ。悪戯を始めて、さらにそこにエリオットが入ってしまったというのなら収拾をつけるのは当分無理であろう。 願わくは少しでも被害が少なくなることだけだ。どうせ時間が経てばもとに戻るとはいえ、メイドであるからには片づけをしなくてはいけないし、戻るから悪戯してもいいという考え方は正していかないといけない。 「じゃあせめて惨状だけでも確認に……」 「わざわざ君が行ったところで何も変わらないよ」 「………」 (それはそうだろうけど…) そんなにはっきり言わなくてもいいじゃないの。 「今行っても変に巻き込まれるだけだ。それなら一段落つくまでここで私と過ごしてくれてもいいだろう」 「あなたとこれから?」 「ああ。今私は君と過ごしたい気分なんだ。それにわざわざ面倒事に首を突っ込むなんて愚かしいと思わないか?」 「……仕事は?」 「君より優先させたいものなんて存在しないさ」 (またさらりとそんなことを言って) そう思うが、反射的に顔が赤くなることをとめる術をアリスは持ち合わせていない。 ちょっとムッとしたのに、今はもう気分は上昇している。ブラッドに簡単に振り回されて。いつもいつも負けているようで悔しくて仕方がない。 「向こうの騒ぎが終わったら出ていくからね」 「くく、ああそれで構わないよ」 面白くて仕方がないと言わんばかりにこぼれる笑い声。 それはきっと騒ぎが終わったことなんてこの部屋にいれば分かるはずないと、知っているから。アリスは気づいていない、銃声の音は、アリスが気づくまえよりもっと前からブラッドの耳には届いていたということを。 「本当に、君がいれば私は退屈知らずでいられるよ」 楽し気な声に悔しいと思いながらも頬を撫でられる気持ちよさに目を閉じてしまうのだがら、きっといつまでたってもこの男に勝てないだろう。 (どうせ私が何て言ったところで、最後には自分の意見を通しちゃうんだから) だから私が抵抗したって無駄よ。 そんな風に心の中で言い訳しながら、そっと上を向かされて送られる口づけを素直に受け入れた。 甘い言葉に甘い空気。胸焼けしそうと思いながらも、嫌じゃないと思う自分は完全に参ってしまっている。 暖かな秋の昼下がり。遠くの騒音ももう二人の間には届かない。 NOVELに戻る |