アリスが高熱で倒れた………という、この情報は瞬く間に屋敷中へと広まった。
メイドの仕事中に突然気を失ったのだが、屋敷内は騒然となっている。そして、その情報は屋敷内にとどまらず、屋敷外まで、いや外にいたブラッドまでにもすぐに伝わっていく。 そのときブラッドはある組織のトップとの会談があり、外に出ていた。昼間に出ていくのなんて大嫌いなブラッドが出て行かないといけないほどの重要な案件。 しかし、会談場に向かうまでに屋敷からかけつけた使用人からアリスのことを聞くやいなや、一言だけその使用人に命令してブラッドは屋敷へ引き返した。 そこそこ、どころではなくかなり大きな商談であったのだが、そんなことはどうでもいい。今のブラッドにとって、アリスより優先させるべきものなどこの世界に存在しない。重要な仕事であっても、希少な紅茶でさえもアリスの前では霞んでしまう。 動揺を隠せずうろたえを見せる部下を置いて、せかせかと屋敷へと戻る。 一見冷静に見えなくもない行動だが、もちろんブラッドだってうろたえていないわけではない。焦っているからこそ、その場にとどまらず引き返しているのだ、しかも早歩きのようなスピードで。何かまずい襲撃があったとしても、そのことを表に出すことなく反撃へ移せるブラッドが、装えていない。 頭の中も実際はアリスで一色。すっぽかした案件の後始末についてなど片隅にも残っておらず、ブラッドはここ最近のアリスについて思いだしていた。 倒れる5時間帯ほど前にアリスが遊園地に向かったのは知っている。それは本人が自分で言っていたからだ。 だがそれ以降仕事のシフトの時間帯まで彼女がどこに行っていたかは把握してない。 今回頼んでいた仕事は掃除や洗濯といった簡単なメイドの仕事ぐらいで特別キツイ内容でもなかったはず。そもそも、辛い仕事は極力アリスへ回らないよう裏で操作しているのだから、仕事が原因でということはまずありえない。多少疲れていたとしても行えるような内容だっただろう。 恐らく真面目な彼女のことだから、周りの止める声も無視して調子が悪いのに仕事をやり、途中で力尽きてしまったと考えるのが妥当だ。 彼女が遊園地に行く前の時間帯はブラッドと一緒に過ごしていたが、その時は普通だったはずだ。いささか無理をさせたかもしれないが、言ってみればそれもいつもことである。 やはり秋という季節は体調を崩しやすいのだろうか、昼と夜の気温差はかなり大きい。 昼の途中で夜に時間帯が変わるとブラッドは特になんとも思わないが、女性の身体にはなかなかつらいものがあるのかもしれない。 特に彼女は季節を跨ぎ、すぐ様々な領土役持ちたちの元を訪れる。徐々にうつり変わりゆく本物の季節の中であったとしても秋というのは体調を崩しやすいというのに、そう短時間にコロコロと体感気温が変化していればますます身体がついていけるはずがない。 (いっそのこと外出禁止令を出してやろうか) 彼女は自分のものなのに、他の場所に行ったり、またそのせいで体調を崩すのは我慢できない。 実際にしたら彼女が怒り狂うのが目に見えているのでやらないが、こんなことがあると思わす真剣に考えてしまう。 そんなことを考えているうちにブラッドはアリスの部屋へと続く廊下にまでたどり着いていた。 スピードを落とさず最後の角を曲がると、アリスの部屋の扉の外で耳をしょげさせたエリオットと双子たちがそわそわした様子で立ち尽くしているのが見える。 「あ、ブラッド……」 「「ボス!」」 「お前たちは……一体何をしているんだ?」 その長い耳で近寄ってくる足音でも聞こえたのだろうか、かなり離れた位置にいたはずなのにまずエリオットが真っ先に歩いてくるブラッドに気が付いた。つられて双子が同時に振り返る。 この面子がそろっておいて騒ぎが起こってないことなんて、まずない。いやこの状況でここで騒いでいたらただではすまさないが、場違いだが少し気持ち悪いと感じたブラッドであった。 「俺、アリスの見舞いに来たんだ……」 「僕たちもだよ」 「なのにメイドの奴らが僕たちを入れてくれないんだ。男子禁制とかなんとか言って」 なるほどな、とブラッドは思う。熱が出ているのなら、着替えなどもある。正しい判断だ。 こいつらがアリスの裸を見たなどと言ったら、思わず殺しはしなくとも銃弾を浴びせるぐらいのことはしまうかもしれない。 とはいえ、この三人がすでにこの場にいることに驚いてた。サボってばっかで普段どこかに遊びに行ってる門番しかり、たしかこの時間帯は見回りであったはずのエリオットしかり。自分より先に到着していることに苛立ちを隠せない。 「お前たちはもういい。後は私が様子をみるからもとの場所に戻れ」 「でも、ボス………」 「いいからさっさとしろ」 いつも以上に口調が厳しくなっている自覚はあるが、正す気はさらさらない。アリスが治るまで会わせる気にならない。 彼女は自分のものでそれは健康であっても病気であっても変わらない。どんなささいな変化も自分だけは知っておきたいし、いやむしろ自分だけが知っておきたい。 双子たちはなんだかんだと言って残ろうとしていたが、先程よりきつく言うとハッと我に返ったエリオットが二人の首元を掴んだ。 「そういやお前らはまだ仕事の時間帯だろ、さぼってんじゃねぇぞ」 「なんだよ、さっきまでなにも言わなかったくせに」 「お姉さんは仕事なんかよりもっと大事じゃないか、この馬鹿ウサギ。離せ」 「ブラッドさえいたらアリスは大丈夫なんだよ、なんたってブラッドだからな!」 「僕たちだってお姉さんのお見舞いしてあげたいのに」 「ボスったら横暴だよ」 ぎゃんぎゃんとエリオットやらブラッドへの文句を叫んではいたが、掴まれてしまえば双子たちはエリオットに力でかなわない。双子たちはエリオットに引きずられるように廊下の陰に消えていった。 ちらりと一瞬エリオットが心配そうにアリスが寝込んでいるであろうドアに視線を投げかけるのをブラッドははっきりと見たが、それには気づかないふりをした。 三人が完全に廊下から姿を消し、さらに声が小さくなるまで見送ってからブラッドはドアを開ける。一応鍵はかけられてはいたが、領主権限を使えばこの屋敷でブラッドが開けられないドアなどない。 そっと中に入ってみると、メイドが7人もいてアリスの看病をしていた。 汗を拭っているもの。額のタオルを取り替えているもの。どのメイドも懸命に看病をしている。 (本当に彼女は人に好かれているな……) 予想はしていたが、目の前の様子に思わず目を見開いてしまう。 あきらかに7人もいらないはずなのに。 それにそもそもここのメイドたちは人の看病などに慣れているはずがない。人を殺し嬲ることには長けてはいても、苦しむものを助けることなどほとんどしたことがないからだ。 アリスの看病をしろと命令は誰にもしていないから、ここにいるメイドたちは休みであるのにかかわらず看病しているということになる。柄でもなく仕事でもないことを、自主的にやっているなど。アリスがこの屋敷の者たちにどれだけ好かれているのかがよくわかる。 当の本人はそんなこともいざ知らず眠っているようだが……… ちらりと視線を向けてみると、ベッドに横になっているアリスはとても苦しそうな様子で、荒い呼吸を繰り返している。時折ごほごほという咳も繰り返してぜいぜいと喉がこすれる音が響く。顔も真っ赤で、眠ってはいるのだろうが眉間にしわがよっており必死に耐えているかのようだ。 「あっ、ボス〜〜」 一番ドアの近くにいた一人のメイドがブラッドに気付いて声を掛ける。自分のすることに集中してブラッドが入ってきたことに気付かなかった者たちもいたのが、そのメイドの声を聞き顔を向けた。 「ボスすいません、お帰りなさいませ〜」 「ああ。お前たち、ここからは私が見るからもう帰っていい」 「え………」 「医者が到着したらこの部屋まで案内してやってくれ。それまでは全員ここにはこなくていい」 「はっはい〜、分かりました〜」 『帰っていい』などといいつつ『帰れ』という意味でしかない、来て早々の追い出し宣言に一瞬戸惑いを浮かべたメイドたちであったが、寝込むアリスを見て無意識にブラッドが眉間にしわを寄せているのを見ると、軽く頭を下げてからそそくさと出ていく。 二人の関係に気付いていないものなどおらず、ブラッドがどれだけアリスを大事に思っているかも知っている彼らは、こんな状況なのにうっかり微笑みそうになり慌てて顔を引き締める。 一番アリスの近くにいて、汗をぬぐっていたメイドは「ボスが来てくれましたからぁ、安心してくださいね〜」と耳元でささやいてから立ち去っていった。 ☆☆☆ しばらくの間、こまめにブラッドがアリスのタオルを変え、汗を拭っていると コンコン とノックの音が響いた。 「ボス〜、医者が到着いたしました」 「ああ、入れてやってくれ」 メイドが外からドアを開くと白衣をなびかせて女医が入ってくる。 アリスが倒れたときいたときすぐに連絡を入れさせた医者。もちろん普通の町医者ではなく組織の息がかかっている。腕は確かだし、信頼もおける。 もちろん男の医師もお抱えでいるのはいるが、女医者を選んだ理由は言うまでもないだろう。 「お久しぶりですわね、ブラッド様」 「挨拶はいいから、早く見てやってくれ」 「彼女が、うわさの……。それでは失礼します」 余裕のない珍しいブラッドの様子に興味深げな視線を投げかけたのも一瞬のこと、ブラッドの前を横切り壁際に持っていたカバンを置くと、彼女は首元に手を当て、そのままアリスの体温を測る。 そして脈や聴診器を取り出して肺の音・動きやその他もろもろ一通り調べ、しばらくするとこちらを向いた。 「こじらせた風邪のようなものですね。よく季節を跨ぐと聞きましたので、恐らく体力が少なくなった体が気温の変化についていけなかったのでしょう」 そこで彼女は悪戯げな笑みを浮かべた 。 「あんまり無理をさせたら可哀想ですよ」 この女医は腕も確かだし信頼もおける。……だが、 (……どこか姉貴と同じ空気さえなければ、言うこともないのに) 傲慢な自分の身内を思い出させる、この女医にすこし苦手意識のあるブラッドなのであった。 「疲れがたまっていたのでしょう。今回も肺炎になりかけているようですし、しっかり回復させてあげないと、大変なことになりますよ」 そう告げて、床に置いたカバンをごそごそと漁り、水薬の入ったビンと赤い線が引かれたコップをとりだした。 「食事はあまり無理して摂取させなくて結構です。とにかく睡眠を大切にして、1・2時間帯ごとに目が覚めたらでいいのでこの線までの薬を飲ませてください。ある程度回復したら、消化のよい食事から少しずつ食べてもらえたらいいです。今はかなりの高熱ですが、一度熱が上がりきってしまえば治るまですぐかと」 ただ……… 彼女は大きめの紙を取りだし太めのペンで大きく文字を書いたと思うと、ベットの近くの壁に貼った。 『完全に治るまで絶対安静』 「看病は大変かもしれませんが、これだけは守ってくださいね」 その言葉を告げる顔が、楽しい玩具を見つけたときの身内の笑みと完全に重なった。 ☆☆☆ 医者が帰ってからしばらくたった後、 「う……ん…、………んん」 そんなうめき声とともに、アリスが目を開けた。 「アリス、大丈夫か?」 「………ん、ごほごほっ」 声をかけると焦点の合わない、虚ろな眼差しがブラッドに向けられる。 目を覚ましたといっても依然顔は真っ赤だし、意識もはっきりとしていないようだ。相変わらず重い咳も止まっていない。 「君は屋敷でいきなり倒れたんだ。ほら、医者から薬をもらったから飲みなさい」 きっと自分の言葉を理解できないだろうとは思いながらもブラッドはそう告げて、アリスの目の前でもらった薬ビンを揺らした。ちゃぷちゃぷという軽い音が響く。 ろくに反応もでないかもしれないなと思っていたのだが、 「やぁ……」 予想に反して反応があった。これまた予想外なことに、ブラッドとは反対方向にアリスは寝返りをうってしまう。 拒否反応をするとは、まさか思ってもみなかった。 「君が薬嫌いだなんて知らなかったぞ。どこぞの芋虫じゃないんだから、薬を飲みなさい」 「やだぁ、けほっ………だって、それ……しゃべるでしょ…」 再びこちらを向いてくれたが、口を尖らせている。どこか恨みがましく睨むアリス。 熱のせいで舌が回らないのか意識があやふやだからなのかは分からないがいつものはきはきした物言いと違い、かなり舌ったらずなしゃべり方だ。それに喉もかすれているからか、しゃべると小さな咳が続く。 「しゃべる……?」 「まえのくすり。…けほけほっ…ちっさくなるくすり、……しゃべったじゃない、けほっ」 小さくなる薬 (………ピアス、か ) きっと意識が混濁して、過去の記憶と入り混じっているのだろう。 喋る上に小さくなる薬といえば、ピアスの薬で間違いない。きっと彼女の常識ではどちらも受け入れがたいことだったのだろう。アリスの顔に不信感が滲み出ている。 確かにあの薬は喋るが、別にどの薬も喋るわけではない。 あんなのが全部の薬にあてはまるなら、病院なんてやかましくてしょうがない。芋虫でなくてもそんな場所には行きたくない。全部撃ち落として割ってしまいそうだ。 ネズミたちの薬が特別なだけで、基本的に薬はしゃべったりしない。この薬も………まぁ100%しゃべらないとは言えないが、おそらくはそういった類の薬ではないだろう。 「この薬は大丈夫だ。喋ったりしないよ、安心しなさい。まず私が君に害のあるようなものを飲ませるわけがないじゃないか」 「…もう、だまされないん……だから。っ……そんなの、……のまないわ」 「ふむ、それは困ったな」 だったら、仕方がない。 (嫌がる君が悪いんだからな) 濁った瞳に彼女らしい決意のこもった光が見える。意識が鈍っていてもアリスはアリス、気の強い彼女がこの光を帯びてしまったら口で説得させることはかなり難しい。そして言葉で説得できないのであれば実力行使しか手はない。 コップの線の部分まで薬を注ぐ。その薬をブラッドは自分の口に含んだ。 (甘ったるい) 水薬とはこんなに甘いものなのだろうか。嫌に不自然な甘ったるさに顔をしかめる。 これなら恐ろしく苦いほうがまだましだ。 それ以上味わってしまう前に、アリスに口づける。 「……んんっ!」 反射的に閉じたアリスの口をこじ開け、いつもより熱い口内に薬を流し込む。 抵抗しようと手を持ち上げ押してくるが、その力はあまりにも弱々しい。首筋をくすぐってやると、アリスはゴクンと音を鳴らせて飲み込んだ。 「っ………はぁ、……はっ…」 唇を離すと、アリスは先程より荒い呼吸を繰り返す。 そしてそのまま、ブラッドを見上げた。 「っ!!」 その顔の艶やかさに目を奪われる。 上気した顔、熱に潤んだ瞳、先程の口移しで濡れた唇。そして小さく開かれたその口から喘ぐように出される熱い吐息。 少し口からこぼれ出た薬が鈍く光る様がこれ以上なく扇情的で。 誘っているとしか思えない彼女の表情に、ブラッドは無意識に唾を飲み込んだ。 しかし何の考えもなく自然に腕が伸びそうになったブラッドの目に貼り紙が入ってくる。 『看病は大変かもしれませんが、これだけは守ってくださいね』 (あの女医、こうなること想像して言ったな) 全力で自制しないと、今にも彼女を襲ってしまいそう。ただ目線が自分に向けられるだけで、強風の前の紙切れのように理性が吹き飛んでしましそうだ。ゴクリと喉がなる音がことのほか大きく響いた。 その音にこのままではいけないと、慌てて彼女から離れようとした。だが、 グィッ 何かがブラッドの行く手を阻む。振り返って見てみるとジャケットの裾を強く掴まれている。 「お嬢さん……?」 「そば……、…い…て?」 弱々しい声で告げられた言葉。げほげほと咳き込みながらも、服を掴む力だけは強い。 先ほどの口移しでの抵抗はあんなにも弱弱しかったくせに、今握っている手のいかに力の強いことか。 「!!…………君はほんとどうしようもないな」 (せっかく珍しく自分から離れてやろうと思ったのに) 情事の中でも滅多にすがらない彼女のおねだり。 いくら強く掴んでいるといっても、簡単に引き離すことができる。だが、そんなことをする気には全くならない。誰も顔を見る人なんていないのだが、赤くなった顔を隠すように片手で顔を覆う。 (好きな女がこんな風にねだってきて、無視などできるわけがないだろう) ベッドの端に腰掛け、空いているもう片方の手でアリスの頬を撫でて濡れた唇を指で拭う。 このまま彼女を犯したくてしかたないが、ここで抱けば確実に敗北だ。頭の中で嘲笑う女の声が響いて、首を振る。食らいつこうとする本能を必死で抑えつける。 何度か頭を撫でてやると、スウスウという寝息が聞こえてきた。だが、服を握りしめる手は相変わらず。息も荒いし顔も赤いが、先ほどまでの苦しみを耐えてるような表情でなくなったと感じるのは、そうでなければいいという願望の表れなのかただの勘違いなのか。 ともかくそんなアリスの様子にブラッドは満足して、アリスの手が離れないよう上着だけ脱いで布団に入り込む。そしていつもよりはるかに熱い身体のアリスを抱きよせて、同じく眠りについた。 ☆☆☆ ゴソゴソと動く気配でブラッドは目が覚める。目を開くとアリスが抱き抱えられてるブラッドの腕から抜け出そうとしているところであった。 「おはよう、お嬢さん」 ピクリとアリスの体が跳ねた。 「あなた、………どうしてここにいるのよ?」 むっつりした顔で告げられる。前と違い意識ははっきりしているようだが、いつもよりだいぶ声が掠れていた。 顔の赤さもだいぶましになっているようだが、抱きしめる体は普段より体温が高いように感じる。 「君は仕事中に倒れたんだよ。そのことも覚えていないのか?」 「えっ、倒れた……?」 やはりまだ本調子ではないか、もしくは熱のときの記憶は残っていないのか、アリスは状況把握ができていないようだ。 ブラッドは体を起こして、ベットのそばの机に置いていた水差しをとりコップに水を注ぐ。 そしてその水を口に含み、呆然としているアリスに口付けた。 「んん、………ぅん」 「っは………」 ちゃんと飲み込んだのを確認してアリスから口を離す。 かぁぁ、っとアリスの顔がさらに赤くなった。 「な、何するのよ」 「何って口移しだが。君が熱にうなされていたときにも、してやっただろう?」 「なっ!!」 アリスは口をパクパクさせている。その間にもう一度口移ししてやろうと再び水を注いで、コップに口を付けようとしたのだが、さすがにその前にアリスに奪われてしまった。 「あなた、人が倒れてる間に何してくれているのよ」 「何って看病に決まっているだろう。君が薬を飲まないと駄々をこねるのが悪いんだ」 「……そんなこと言ってないわ」 ふいと顔を背けて水を飲むアリス。だが、僅かに見える耳は真っ赤だ。 そんな様子にむくむくと嗜虐心が湧き出す。 「あぁ、そういえば。私をここに連れ込んだのも、君だぞ」 「っ!!嘘よ!」 アリスはバッと背けていた顔をこちらにむけた。目が驚愕に見開かれている。 「ほら、君が手を離してくれなかった私のジャケットがそこに。こんなにもしわだらけになるほど縋られて、どうしようかと」 「っっ!」 「熱にうかされた君は色っぽくて、思わず理性が飛んでしまいそうだったよ」 驚愕の表情を見せたアリスだったが、証拠のようにアリスのすぐそばにあるジャケットを指さしてやると顔が赤くなった後真っ青になってしまった。 さっと潤った唇を指でなぞりにやりと笑みを向けると、アリスは慌ててブラッドに掛かっていたかけ布団を奪い取って中に潜りこんでしまう。顔を完全に隠されてしまった。 「わ、私寝るから、ベットから降りて」 地底のどん底から湧き出るような暗い声が布団の中から聞こえてくる。それがただの照れ隠しだとわかっているブラッドにとっては微笑ましくて仕方がないのだが、かけ布団に潜り込んでいるアリスにブラッドの表情は見えない。 クスクスと笑っている表情は慈愛に満ちたものであるのに、ただ馬鹿にされていると勘違いしたアリスはさらに怒ってしまう。 「もう、はやくっ!」 「はいはい、病弱なお嬢さんのわがままを聞いてあげようじゃないか」 普段ならもっとからかうところだが、ブラッドは素直にベッドから降りていく。 正常なアリスであったらそのことに何か違和感を感じるかもしれないが、幸か不幸か今のアリスはまだまだ不調。大人しく引いてくれたことに安心するだけで、ちらりとブラッドが下りたことを覗き見ると、コロンと枕に転がった。 そのままアリスは寝てしまおうとしていたのだが、薬のことを思いだしたブラッドが慌てて声をかける。 「あ、お嬢さん眠る前にこの薬を飲みなさい」 机の上に置いておいたビンに入った水薬を持ち上げ軽く揺らす。また嫌がったら面白いのにと思って同じ行動をとったのだがが、さすがに理性のしっかりしたアリスは拒絶反応をすることはない。 分かったわと返してアリスはむくりと起き上がる。ブラッドが赤い線まで薬が注いでコップ差し出すとアリスは黙って受け取った。 クンクンと少し匂いを嗅ぐ仕草をしてから軽く振って、少し間を開けたかと思うと一気に口に注ぎ込む。声には出していなかったが、この水薬に少し不信感があったのかもしれない。飲むまで薬を見つめるアリスの顔があまりにも真剣で、ブラッドは気づかれないよう笑いをこらえるのに一苦労した。 ゴクンゴクンと喉を鳴らして薬を飲み切ると、コップをブラッドに渡す。 「まるで子供用みたいな水薬ね」 「あんな甘い液体をよく表情変えずに飲めるな、君は」 「甘いは甘いけど、そこまでじゃないでしょう。なんというか昔懐かしい味がしたわ、昔風の時に飲んだ薬の味と同じ。というよりなんであなた私の薬の味を知っ…て………」 ブラッドが口移しをして薬を飲ませたからだ、ということを思い出しまた真っ赤になるアリス。ぽっと赤くなると慌てて横になった。 そして、顔を反対側に背けてしまう。 「おやすみ、お嬢さん」 「………おやすみなさい」 返事は小さな声だった。ぜひ顔を見ていってもらいたかったと思ったブラッドであったが、眠って回復してほしい気持ちもあって今度は余計なことはしない。それにからかうのは次に起きたときに………という計画をすでに心の中で立てている。そのためにも今は素直に眠りについてもらわなくては。 アリスはブラッドがいることを意識しているのか少し待ってみるが寝息が聞こえない。手袋をはずして頬に触れてみるとピクッと身体が少し跳ねる。それはほんの小さな反応だったが、ブラッドにばれないわけがない。だがそのことには気づかないふりをする。 素手で触れたアリスの肌は、一眠りする前と比べものにならないぐらい温度は下がっているが少し熱を持っていた。温度の低い自分の手がぬるくなるまでアリスの顔に添わせる。 触れた最初はこわばっていたアリスの身体がゆっくりほぐれていくのがわかった。右手がぬるくなり、代わりに左手でアリスの額に触れていたころにはアリスは眠りについたようだ。 そっと覗きこんだその寝顔が少し微笑んでいるように見えて、それに嬉しいと感じる自分は本当に末期だと軽く笑った。 ☆☆☆ (……………なんだかいい匂いがするわ) 深い眠りについていた頭が、おいしそうな匂いにつられ意識が浮上する。それと同時に、自分がとてもお腹がすいていることを自覚して、そのことで頭いっぱいになった。 (これは何の香りだったかしら……。だしの香り?) ゆっくり目を開けると、ブラッドが影で見えづらいが鍋のようなもののふたを開けて中身を覗き込んでいるのが見えた。 「ブラッド……、それなぁに??」 「あぁ、お嬢さんお目覚めか?きっとここ数時間帯何も食べてない君のことだから、食べ物の香りで目覚めてくれると思って用意させたのだが、当たったな」 「………何かしら、微妙にイラつくんだけど」 (そんな食べ物の匂いで起こそうなんて、食いしん坊じゃあるまいし……。実際お腹すいて目覚めたんだから、文句も言えないけど) ふふふ、と笑うブラッドがなんだか自分を小馬鹿にしているように見えて、ちょっと憤るアリス。 でもアリスが倒れてから5時間帯以上はすでに経過している。薬と水を少し摂取した程度で、お腹がすくのは当然のこと。だから起きてお腹が空いたと気づいてから食事を用意させるのでなく、気づいたときにすぐ食べてほしくてブラッドは準備していたのだが、そこまではアリスも気づかない。 「とりあえず、熱は下がりきったようだな」 「あっ……!」 さっとブラッドの手が伸びて、アリスの首筋に触れる。寝る前に、そうやって触れられていたことを思いだしてアリスの頬に熱が溜まる。 「おや、顔が赤くなってきたようだが……?」 「なっ、もういいでしょ。離しなさいよ」 ブラッドの腕を掴む。 その時ぎゅるるるという大きな音が響いた。 「あっ…………」 ぱっとお腹に手を当てるアリス。漂うおいしそうな匂いに身体が我慢できないと告げている。 からかいの玩具になってる場合じゃない。 「ねぇ、それ私の食事用に用意してくれたのよね?いただいてもいいかしら…」 恥ずかしさはあるが背に腹はかえられない。一度自覚してしまうと空腹は耐えられないもので、目の前にあって匂いもしているこの状態は生殺しのほかの何物でもない。 ちらりと前髪から覗くようにブラッドに視線を送る。 「ああ、もちろんだ。今準備するからベッドに座ってくれ」 「ありがとう…」 鍋のふたをあけ、おたまで別皿によそってくれているのを横目に身体を起こす。一度大きな伸びをしたら、身体が凝り固まっていたのかみしみしの伸びていく。 「はい、おまたせ」 器と大きな木のスプーンを持ってブラッドがアリスの方を振り返る。 ありがとうと言って両手を差し出すアリスであったが、なぜかブラッドはアリスにどちらも渡してくれない。差し出した手が見えていないかのようにスルーされる。 首を傾げる気持ちよりも、こんなにお腹が空いてるのに待てを喰らわされていることにイラつく。そうでなくとも空腹時はイライラしやすいと相場は決まっているものだ。 明らかにアリスの目が吊り上がっていっているというのに、ブラッドはどこ吹く風。文句を言おうとアリスが口を開いたとき、木のスプーンで器の中の食べ物……卵でとじたおかゆをすくってアリスの前に差し出し、そのまま開いた口に突っ込んだ。 「!?!?……ごっほごほ」 突然入ってきた食べ物を反射的に飲み込むが、突然のことに気管に入ってしまったようで激しくむせる。 「ああ、すまなかった。一声かけるべきだったな」 ブラッドが心底申し訳ない、といった声音で何か言っているが問題はそこじゃない。 激しい咳こみのせいで軽く涙目だ。罵詈雑言を浴びせかけたくて仕方ないが、咳が止まらずそれもままならない。ただでさえ体調を崩してはなから少ない体力が、無駄な込咳こみでまたしても削られていく。 「ごほっ………、あなた一体何やってるのよ」 とりあえず一番の問題をぶつける。食事をもらえるのではなかったのか。 なぜお預けを喰らった上に、こんないやがらせみたいな目にあうとは。そんなに体調をくずしたことを快く思っていないのか。 「何って……もちろん君に食事を与えているのだが?」 「なんで普通にお皿を渡してくれないのよ」 「あれを見てみなさい」 「あれって……??」 ブラッドが片手で指さしたのはアリスの後ろ側の壁。首を大きく回して後ろを振り返る。 そこには『完全に治るまで絶対安静』という文字が流れるような美しさで書かれていた。 「あれは君の診察をした医者が帰り際に張って帰ったものでね。とにかく君が完全に治るまで絶対安静にしておくことと、うるさく念押しされたんだ」 「は、はぁ………??」 (な、何が言いたいの……??) いや、何を言いたいかは分かるような気がする。とてつもなく嫌な予感がひしひしと。熱は下がったはずなのに、どこからともなく悪寒が。 どういう意味なのか分かるような気がするが、分かりたくない。 「完全に治るまで絶対安静、ということは完治するまで看護し続けなさい、という意味になる。だから、治るまで食事は私が食べさせてやろう。遠慮はいらないぞ?」 「なっ………」 ある程度想像がついていたとはいえ、あまりの無茶苦茶な論理に絶句してしまう。どこからツッコミを入れたらいいかも分からないし、何をどうやればそんな発想になったのか理解不能だ。こいつが一度医者にでも見てもらえばいい。 こんなイカレタ人を治せるような医者なんていないとは思うが。 「っ何馬鹿なことを言い出しているのよ、馬鹿じゃないの!?」 「大真面目に決まっているだろう。真剣に君のことを考えたからこそ、君が熱に浮かされたまま私を誘ってきたのを必死で耐えてやったんじゃないか。こんな紙がなければ、瞳に涙を浮かべ熱い視線を送る君の望むまま吐息をもらすその唇を塞ぎ、抱きしめて、熱い身体を思う存分味わったというのに」 「……この紙がなかったら私は殺されていたというわけね」 どこまでが本気かは知らないが、もし意識がないほど高熱で苦しんでいる状態で相手なんてさせられたら死にかけていただろう。恐ろしい。 そして何よりそんなの冗談だと言い切れないところが何よりも怖い。この男ならやりかねないと、どこかで思ってしまっている。 「というわけだ、ほら卵でとじたおかゆだから消化もいいだろう。口を開けなさい。ほらあ〜ん」 アリスのつぶやきは華麗にスルーをされた。もうこの話は終わりと言わんばかりに、おかゆをすくったスプーンを口の前に持ってこられる。 「何がというわけ、なのよ!!まったく理由になってないから。まず、あなた看護の意味わかってないでしょ。それにご飯を食べさせることと絶対安静がどうつながるっていうのよ」 「わかってないのは君の方だろう?絶対安静というのは病人を寝たまま動かさずにいてもらうことだぞ?だから、食事介助は必要だということになる」 「私もう起き上がっていますけど??」 「あぁ、でもベッド上で上半身を起こしているだけだろう。寝転がったままでは誤嚥しやすいのだから、そこはいいだろう」 「何そのご都合主義は!!!ご飯ぐらい自分で食べれるわよ、よこしなさいよ」 「君が自分で食事していいのは、完治した後だ。あぁ、もしもう完全に治ったと君が言うなら、この皿を渡してもいいが……」 何が悲しくて、動けないわけじゃないのに他人の手でご飯を食べさせられなくてはならないというのだ。しかもブラッドになんてただの羞恥プレイでしかない。 だから、完治しているはずもないけれど完治したというために口を開きかける。わざわざこういうだけの企みがあってのことだと気づくにはお腹がすきすぎていた。 「私……」 「まぁもちろん完治したということは私のおあずけもなし、ということになるのだからこのまま君に食事してもらうというのはやはり無理かもしれないな。今の私は、どうしようもなく君に飢えているから。元気になった君が目の前でのんびり食事をしているのを待ってあげられるほど、私は我慢強くない」 「………………」 「あぁ、今何かを言いかけたかアリス??」 絶句。 つまりなんだ、病気である以上は自分でご飯を食べるのは禁止で、病気が治っているのなら相手をさせられる、というのか。しかも後者は無理やり付き合わされる上に結局ご飯はくれないと。 (……………おかしくない?おかしいわよね?絶対おかしい) どう考えてもおかしい。おかしいのになぜ言い返せないのか。 それは簡単、無茶苦茶すぎて逆にどこをどう反論していけばいいのかがわからないからだ。サンクスギビングデイの休みを求める双子たちをわけわからない論理で退けたのと同じ、滅茶苦茶だからこそ相手に反論の隙を作らせない。 そしてたぶん今何をブラッドに言ったところでこの二つの選択肢以外は出てこないような気がする。これは長くない時間を共にしてきたアリスだからこそのカンだ。その上、あまりにも駄々をこね続けたらこの選択肢すら消えてしまうような予感がする。 今の病み上がりでお腹もすいた状態のままブラッドに口で勝てるはずがない。元気な時でさえ言いくるめられがちだというのに、今挑んでも待ち構えてるのは更なる窮地だ。 ぎゅるるるるるる またお腹がなる。さっきより大きな音が響いたような気がする。 (そうよ、お腹がすいてるのよ、もうどしようもないってぐらいに。早くしないとせっかくのご飯が冷めてしまう) 何回目かになるが、アリスは本当にお腹が空いていた。この空腹がなくなるのならば、ある程度のプライドを捨ててもいいかもしれないというほどに。 だから心の中で自分に何度も何度も言い訳を繰り返す。 (私はお腹が空いてるの。ブラッドと無駄に争って食べ損ねるなんて馬鹿らしい。とにかくこの空腹から逃れられたら何かいい考えが浮かぶかもしれないからだから。だからよ仕方なく不本意でしかないけど……) 「………ご飯食べさせてちょうだい」 「喜んで」 泣く泣く大人しく食事介助してもらうことを選択する。 獲物を捕らえた獣のようにブラッドがにたりと笑ったが、そのことには気づかないふりをする。先ほどと同じように唇の前まで差し出されたスプーンに目を閉じてパクリと口に含んだ。 口を閉じた瞬間斜め上にスプーンが引き上げられてするりとお粥が口の中に落ちる。 『慣れない人が食べさせるとスプーンを水平に引き抜いてしまいがちなのだけど、そうするとスプーンをしっかり銜えていないと乗っているものをちゃんと食べるのがむずかしいの。だからこんな風に引き上げるようにスプーンを動かして食べさせてあげるのが一番いいのよ』、と昔姉さんに教えてもらったことを思い出した。いつか誰かを介抱してあげる機会があったら思い出してね、と言われた言葉を介抱されている状態で思い出すなんてなんて皮肉なのか。 ブラッドに文句をいう資格が減っていってるようでなんだか悔しい。でも、だからこそ文句を言う。 「冷めてる………」 それはもうただのいちゃもんでしかない。しかし、それぐらい言わないとこの状況に耐えられない。 「君がだだをこねたりするからだろう。あ、では口移しで……」 「美味しいから気にしないで」 こんな小さな反抗でも10倍以上になって返ってくるのか。 (もうどうとでもしてちょうだい) これ以上状況が悪化しないのならどうでもいいわ。そんな投げやりな気持ちのまま、大人しく続けて差し出されたスプーンを銜えた。 しかしこの時のアリスはまだ気づいていない。この食事を受け入れてしまった以上ブラッドの無茶な言い分を受け入れたことになってしまっていることに。 完治したとアリスが言い出さない限り、ブラッドのこの介助ごっこは終わらない。 それに気が付くのはお腹いっぱいになってから、汗で気持ち悪くなった衣服を着替えようとしたとき。嬉々として着替えの手伝いをしよう、いや手伝いではなく主導権を持って着替えさせようとしてブラッドに服をはぎ取られた後だ。 自分で言いだしていたようにアリスには一切手を出さない。何もすることなくすぐ新しい服を着せてくれる。でも、今の状況は実際に手を出されているより恥ずかしい状況なのではないか。何を自分がするとしてもブラッドが行う上に、ベットからの移動は認められない。人形にでもなったような気分だ。 (でも完治したって言ったら……) おそらく満面の笑みでアリスを押し倒すのだろう。いつもよりねちっこくねちっこく相手をさせられるのが容易に予想できる。 (この男のことだから、いままで私が奉仕したのだから今度は君が私に奉仕する番だろうとか意味わからないことも言い出しそう) そこまで想像できるから安易に治ったと言えない。しかもブラッドも、アリスがそこまで予想して分かっている、ということも分かっているに違いない。 つまり、アリスが完治したと自己申告することはブラッドに抱いてとねだるのと同意義というわけだ。 (水遊びした後、髪の毛を完全に乾かし終える前に夏から冬に移動したり、忘れ物したからってもう一回夏に戻って冬に行くとかそんな無茶はもうしないから……!) 今回倒れた理由は季節の移動を甘く見すぎていた自分にある。それを心の底から後悔しつつも、残念ながら打つ手はない。 もう絶対倒れたりなんかしないように自己管理するからだから許してと言ったところで無駄。ブラッドはアリスの看護遊びに夢中になっている。(抱いてとねだる)羞恥と(甲斐甲斐しく世話をされる)羞恥の間で揺れながら、なすすべもなく世話を受けることに恥ずかしさで涙目にすらなっているアリスを見るのは、嗜虐心の塊みたいなこの男にとって楽しい以外の何物でもないだろう。 観念してその一言を言うまでまでこの遊びは終わらない。耐えきれなくなったアリスがその言葉を言うのはいつになることやら。 ただ、当分ブラッドから解放されそうもないことだけは確かなようだ。 NOVELに戻る |